埼玉県西部各地の高校に勤務し令和3年に死去した石川勝利さんは生前、幕末から昭和にかけて地域で活躍した画家や書家の作品を数多く収集していた。夫人の尚子さんは、郷土史研究者の杉田修一氏(元中学校長、元日高市教育委員会学校教育課長)の協力を得て、その膨大なコレクションを整理し、今各地で「文人・画人展」を開いている。一部を除き忘れられかけている作家たちを世に紹介し、見直し、地域文化を伝えていきたい、という。
石川勝利 昭和17年、埼玉県比企郡唐子村(現東松山市)生まれ。川越高校、東京教育大学理学部数学科卒。教育大附属坂戸高校、県立飯能高校、小川高校、越生高校、入間向陽高校、熊谷高校、新座北高校、与野高校で教諭、教頭、校長を歴任し、平成14年定年退職。令和3年死去。教職の傍ら、地域の作家の書画、骨董類などを収集。次男の死を契機に短歌の世界に入り、第一歌集『白雪に』、第二歌集『青年眠る』刊行。
教師をしながら赴任先で骨董屋めぐり
―ご主人石川勝利さんは数学の先生だったのですか。
石川 そうです。昭和40年4月、教育大附属坂戸高校で私も同時に教師となり、出会い、結婚することになりました。夫は数学、私は家庭科が専門です。
―ご主人はどのようなものを集められたのですか。
石川 掛け軸とか屏風とか、道具類、古文書、様々な民具類も。古いものが大好きでした。変わったものでは、取り壊しされる代官屋敷の門をもらい受けて移築したほどです。
―先生をつとめながら、収集をされたということですか。
石川 夫は農家の3男坊で経済的には恵まれていませんでしたから、「高師(高等師範学校)なら月謝は要らじと進学を麦刈りながら父の許しき」という歌を残しているくらいです。でも本を読むのが好きで、手先も器用で、絵も描いたし、芸術に対するあこがれはあったと思います。結婚してからは共働きでしたからいくらか余裕ができて、小川高校に勤めたあたりから書画を集めるようになりました。今年の11月には川越でコレクション展をいたしますが、最終日の講演で、私は「石川勝利芸術世界への憧憬」というタイトルを付けさせていただきました。それだけ文学や芸術へのあこがれは強かったのです。
―集めるのはどのようにして。
石川 小川高校の時は小川、越生高校の時は越生と、それぞれの勤務先で骨董屋めぐりをしたり、地元の骨董屋にこういう出物があったら教えてくれと頼んだりしていました。見た目はボロボロの普通の人なら見向きもしないようなものを中心に買い集めていたのです。
埼玉ゆかりの、忘れられかけているような人の作品
―そうすると地元の作家の作品が多いのでしょうか。
石川 埼玉ゆかりの、忘れられかけているような、そういう人の作品です。ごく一部を除き高名な作者とかりっぱなものは買っていません。私には1万円以上のものは買わないと言っていました。遺されたメモには結構高価なものもありますけれどね。
次男の死をきっかけに短歌の世界に
―息子さんを亡くされた。
石川 次男が平成7年12月30日に家を出て行方不明になり、翌年の4月11日に大雪山の雪の下から見つかりました。
―息子さんの死をきっかけにコレクションから手を引いた。
石川 夫はひどく落ち込み、(収集を)ぷっつりやめたんです。自分の楽しみ、道楽は捨てたと。
―そのような性格の人だったのですか。
石川 そうでした。息子の死も自分のせいだと思い詰めるように人のせい等には決してしない厳しい一面を持ちながら、とても優しい人でした。権力を振りかざして弱い者いじめをするような人は大嫌いでしたが、子ども、女性、お年寄り、ハンディをもつ人たちなどには本当に優しかったですね。
―それから短歌の世界に。
石川 平成8年8月に「花實」という会に入会して短歌を詠み始めました。
―なぜ短歌だったのでしょうか。
石川 越生高校の同僚だった方に勧められたのですが、自分の内面を見つめて息子を悼むには短歌が一番いいと思ったんだそうです。
―その後、歌壇で活躍されるように。
石川 花實短歌会では雑務も引き受けて結構忙しくなりました。埼玉県の歌人会にも関わって、亡くなる時は副会長でした。令和2年大腸ガンになり手術をしたのですが、 退院した時、毎日新聞埼玉版短歌欄選者の水野昌雄先生が高齢でやめるのでと依頼があり、引き受けました。夫のやる気をみて私はとてもうれしかったです。新聞社から投稿のハガキが来て、選んで講評を書き、送る。令和3年6月に亡くなったのですが、7月まで載りました。最後まで律義でした。
歌集『白雪に』、『青年眠る』
―歌集も出された。
石川 平成14年、与野高校を退職した年(息子の七回忌)に第一歌集『白雪に』を出しました。俳人の金子兜太さんに墓碑銘「大悲」の揮毫をお願いした折り、「白雪に青年眠る月日かな」、「白雪に青年眠り父母と遠し」という句を色紙に書いてくださった。それをありがたがって『白雪に』という名にしたのです。『青年眠る』を第2歌集として出すつもりでいたんですが、忙しさにかまけていて実現できず、やむなく、昨年1周忌に合わせて私がまとめました。石川勝利がどういう人間だったのか、まえがき、あとがきと中身を見ていただければだいたいわかるような組み立てにしています。
―金子兜太さんとはどのようなご縁だったのですか。
石川 夫が小川高校にいた時、文化講演会の講師に依頼して交流が始まりました。小川は金子さんのお母様の生まれた町です。熊谷高校の100周年記念事業でも卒業生である金子さんに講演を依頼しました。歌人会の講演会でも高齢の金子さんのインタビュー役を引き受けたりもしています。
杉田氏がコレクションに驚き、整理 総計2000点
―収集をやめてから、コレクションはどうなっていたのですか。
石川 夫は、図録を作るとか小さな美術館を建てるとかの夢も持っていたので、いろいろな記録とかメモも書いていたんですが、そういう夢を息子の死をきっかけに全部捨てたんです。ただ、集めた物自体は、家の天袋だとか息子の部屋とか押し入れだとかに放置され、山のように残されていました。
―それを整理して、公開することになったわけですね。
石川 夫が書斎に使っていた離れがあったので、そこを片付けてちょっとリフォームして作品を収蔵する場所にしようと考えたんです。そのリフォームを手掛けてくださったのが、杉田修一さんと長島正行さんのお二人です。ある程度できあがってからそこに私がどんどん掛け軸だの運んだら、杉田さんが驚かれ「それは何だ」と聞くので「夫が集めたもので何とか整理したい」と答えると、「石川さんじゃ、100年たってもできない、俺がやってやる」と言ってくださったのです。
―どのくらいの量があるのですか。
石川 私にはわかりません。書画骨董、民具、焼き物、人形など、杉田さんは2000点くらいあると言われます。古いお家からもらってきた古文書が段ボールにいっぱいあり、それにはまだ手がついていません。
令和5年から展示公開、東松山、小川、川越、秩父、熊谷、深谷
―今年(令和5年)から展示公開を始めた。
石川 夫の3回忌の6月に「東松山・比企地区の文人・画人展」を東松山市総合会館で開きました。その後、小川町関係を取り出し「小川町の文人・画人展」として9月にコレクション展を開催。次は、川越の蓮馨寺講堂で11月23日から30日まで「川越・入間地区の文人・画人展」、来年4月は秩父市の秩父神社で、その後日取りは未定ですが、熊谷、深谷での開催を考えています。それぞれの地区ゆかりの作品を展示する他、日替わりの講演会も開きます。
関係者に無償で寄贈
―作品を寄贈されているとお聞きしましたが。
石川 ご覧いただいて、公共団体や作者ゆかりの方には寄贈したいと思っています。
―無償でですか。
石川 私が持っていても仕方がありません。値段の付かないゼロ円のものも数万円のものもあるでしょうが、私にとっては夫の集めた書画ですから全部同じ価値なんです。売ったり買ったりなんてとてもできません。もらっていただくだけでうれしい。嫁入り先を見つけるのが私の一つの目的なんです。杉田さんがそれぞれの作品の子孫の方を探して、見に来てください、もし必要なら無償で差し上げますと言ってくださっています。
―これらの多くは地元でも忘れられかけ、散逸してしまっているでしょうから、紹介し保存する意義は大きいです。
石川 夫も「郷土に生き活躍した先人たちを見直し、残された文化を大切にする一助になりたい」と書き残していました。杉田さんもそれに共感してくれています。
<杉田修一さんのお話>
今は忘れられかけているけれど、こういう作家がいたこと、そして石川勝利という人がいたこと、を世の中の人に知ってもらいたい
石川勝利さんは僕より7つ上で、川越高校の先輩です。彼は生前、自分が教師として赴任したその土地土地で、全国的でなくローカルで、ほとんど忘れ去られてしまったような人達の作品を中心に買い求めていました。
僕は縁がありボランティアで石川家の離れを改修し仕上げて帰ろうと思ったら、尚子さんが母屋から掛け軸やらなんやらどんどん運び込んできてびっくりしました。勝利さんが生前に集めていたものと言う。僕が整理した掛け軸は350点、絵が40点、地方文書が500点、総計2000点近くのコレクションです。
今は忘れられかけているけれど、こういう作家がいたこと、そして石川勝利という人がいたこと、を世の中の人に知ってもらうことができればと、県内各地で石川勝利コレクション展を開くことにしました。会場費、図録の制作費、道具代、講師の謝金も尚子さんが負担しており、行政から補助は受けていません。
作品は、希望があれば子孫の方に差し上げています。私は、子孫の方を探して歩いていますが、たどりつくのが大変です。子孫でも先祖のことを知らない人達が圧倒的です。この間もピンポンとやったら奥様が出てきて「うちの先祖です」。「展示会を見にきてください。身内の人で希望あればお戻ししたい」と会話しています。そういうことをやっているのが今の私であり、石川尚子さんという人です。
(取材2023年9月)
2024年10月11~13日、「北武蔵の文人・画人展-石川勝利コレクションより」が、熊谷文化創造館さくらめいとで開かれます。