川越市笠幡の霞ヶ関カンツリー倶楽部近くに建つ埼玉育児院。大正初めに開設された県内で最も歴史のある児童養護施設だ。草創・発展期には、地元の大地主で篤志家の発智庄平や渋沢栄一も深く関わっている。埼玉育児院の歴史を紹介するとともに、施設の現状について藤井美憲施設長にお聞きした。
(歴史については、100周年記念誌「埼玉育児院100年のあゆみ 愛する心 とこしえに」、110周年記念誌「愛する心 とこしえに2」を参考にしました)

<歴史> 嵐山町の安養寺の小島住職が創設
埼玉育児院は、大正元年(1912)菅谷村(現在の嵐山町)の安養寺の寺内に創設された積徳育児院に始まる。住職の小島乗真は明治天皇聖徳記念事業として観音菩薩の慈悲を体現すべく独力で始めた。しかし檀徒の反対、周囲の冷笑と嘲罵の中財政的に困難を極めた。


発智庄平、渋沢栄一が支援、正7年、社団法人埼玉育児院設立
大正5年、入間学友会会頭で篤志家であった発智庄平が訪れ、渋沢栄一を紹介、支援を約束した。発智庄平は霞ヶ関村(現川越市)の大地主で、黒須銀行(後の武州銀行、埼玉銀行)頭取や霞ヶ関村長を務め、名門ゴルフ場霞ヶ関カンツリー倶楽部に土地を提供開設に尽力したことで知られる。大正7年、社団法人埼玉育児院が設立され、発智庄平が院長、渋沢栄一が名誉顧問に就任、松山町(現東松山市)の箭弓稲荷神社参道脇に移転した。乗真は院父となったが、その後退き、一人東京に移り住み、不遇のうちに亡くなった。


発智庄平自宅近くの笠幡に移転
発智庄平は昭和3年、育児院を自宅近くの所有地(現在の川越市笠幡)に移転させた。法人の組織を通じ有力者や篤志家に寄付を依頼するとともに財政的な支援をしつつ昭和8年まで院長を続けた。

河東田院長によりキリスト教主義に
発智庄平の後は、元朝鮮公立普通学校校長であった河東田教美(かとうだ・きょうみ)が院長を務めた(昭和24年まで)。河東田は熱心なクリスチャンで、育児院は創立以来の仏教主義からキリスト教主義へ転換した。理想とする教育と養育の実現に努め、戦時下は地域活動に積極的に関与した。昭和23年児童福祉法の施行に伴い「養護施設」として認可を受けた後、昭和24年病のため死去、後任の第4代院長は夫人の河東田ヨシが就任(昭和51年まで)。昭和27年、埼玉育児院は社団法人から社会福祉法人(河東田ヨシ理事長)に組織変更した。51年ヨシ院長の死去に伴い、ヨシの養女であった河東田もと子が第5代院長に、理事長にはヨシ院長の実弟の松本国幸が就任した。
その後、院長、理事長は何代か交代する中、平成20年から地域小規模児童養護施設を開設、平成30年には新規事業として母子生活支援施設(カーサ・ライラック)を開設した。
<藤井美憲施設長に聞く>
埼玉育児院の現状について、藤井美憲施設長にお聞きした。
児童養護と母子生活支援の2つの事業
―ここはどんな施設ですか。
藤井 児童養護施設です。昔の孤児院。児童福祉法ができる前は生活保護施設と呼んでいました。


―埼玉で一番古いのですか。
藤井 児童養護施設の認可第1号(昭和23年)。活動としても最も早く始まっています。
―児童養護以外の事業もありますか。
藤井 5年前までは児童養護のみでした。平成30年に母子生活支援施設カーサ・ライラックをここから車で20分のところに開き、今は法人で児童養護と母子生活支援の2つの事業を展開しています。
―母子生活支援とは。
藤井 母子世帯の親子を一緒に預かります。
親が育てることができない子ども:虐待が多い
―児童養護で預かる子は親がいない子ですか。
藤井 今は、ほとんど親はいます。
―ということは。
藤井 親が育てることができない子どもです。今は虐待が多い。
―年齢は。
藤井 児童福祉法で決められており、2歳から18歳が基本です。児童相談所で判定されて入所します。
―地域は。
藤井 全県です。
―児童養護施設は各地にあるのですか。
藤井 県内に22カ所あります。そのうち規模が大きいのは県立の施設が3カ所です。
本体が44名、分院が4カ所あり22名、施設の小規模化進める
―こちらの受け入れ定員は。
藤井 本体が44名、分院が4カ所あり22名です。
―分院とは。
藤井 平成28年に厚労省が「新しい社会的養育ビジョン」で家庭的な養育を基本にするという方針を明確にしました。それ以前からも施設の小規模化、地域分散化が政策の流れです。分院は、地域小規模児童養護施設です。
―分院の場所は。
藤井 川越市内です。
―それぞれの規模はどのくらい。
藤井 6名が3カ所、4名が1カ所。
―本院はまだ大規模ですね。
藤井 本体の44名も、昔の古い建物は大人数で大きな建物に入り食堂にみんなが集まって食べる大舎でした。今はユニットごとに建物を作り、1ユニット6名から8名の子ども達で生活する形(小舎、8棟)になっている。建物の作り方が変わっています。

―子ども達はここから保育園や学校に通うのですか。
藤井 そうです。ここは家に代わる場所です。
―学校が近所にないと大変です。
藤井 学校はそれなりに近くにあります。
心にキズはあるが普段の生活は普通に子どもらしい
―虐待されて親から引き離された子と聞くとみな不幸で暗いのかというイメージもありますが。
藤井 普通の子と変わらないです。確かに傷ついている子どもという見方はイメージ的に強いと思いますが、子ども自身はそれほどではない。親から傷つけられていることの意味は、小さい時に親の愛情を受けられなかったということで、それが長く影響を残すのです。人を信じられない、基本的な人に対する信頼感が植え付けられていないことが一番大きい。だから心にキズはある。だけど普段の生活は普通に子どもらしくしています。
―経済的理由で育てられないケースは。
藤井 昔はいました。今は虐待が多い。たとえば生活保護の家庭でも親がしっかりしていれば児童相談所は保護する必要はない。母子家庭で生活保護を受けながら生活している家庭が意外と多いのです。そこからはずれて子どもを預からなければならないケースはわずか。たとえば児童虐待が年間20万件を超えていますが、虐待を受けた子はみな施設に入るかというとそうではなく、相談所は通報を受けて調査をする、親の指導もする、ほとんどのケースは子どもを保護するまでいかない。保護されるケースは2%くらいです。
虐待増加の背景:「多様化の時代」父親が父親らしくなくていい
―どういうケースの虐待が多いのでしょうか。
藤井 ネグレクト。養育をちゃんとしていない。DV(家庭内の暴力)を目撃する、あるいは直接受ける。そういうケースが増えている。虐待の通報が児童相談所だけでなく警察に来る。すると警察の方で対応、警察から児相に通告されるケース、警察がらみが半分以上ある。中には亡くなる子もいる。
―虐待が増えている背景は何だと考えますか。
藤井 今多様化の時代と言われる。多様化の意味は父親が父親らしくなくていいということ、つまり家父長制で母親が子どもを育てると言っていた時代の方が虐待という認識は少なかった。時代の変化とともに大人の意識も変わってきている。正しい子育ての情報が妊娠したお母さんから母親に至るまでちゃんと回っていないのが現状でしょう。
―世の中の風潮が、自由に自分勝手に生きればよいという方向です。
藤井 個人化です
家庭復帰は全体の2割、親子関係再構築は難しい
―入所した子どもの出口は。
藤井 ケースバイケースで、就職して社会的自立をしていく子どもが全体の半分以上。上の専門学校や大学に行く子が2割ぐらい。
―途中で親が引き取るケースは。
藤井 家庭復帰が全体の2割くらい。できる限りそっちに持っていきたいが、一度預かって家に返そうとしても親子関係再構築ができない家が多い。
―家庭復帰が望ましいわけですね。
藤井 国のビジョンで家庭養育優先の原則がある。家庭でなければそれに近い環境で生活させるべきだと。2番目の選択に当たるのが里親委託で、政府は目標値を掲げて増やそうとしている。
―ここに入ってから里親に行くケースは。
藤井 1%くらいです。学齢期になると自分の意思を持っているので里親さんと関係をつけるのが大変です。親の承諾を得られないケースも多い。
―どこにも行けない子もいるわけですね。
藤井 18歳が児童福祉法の規定で範囲なので、成人なのに自立できない子もいる。進学する子も親元に帰れなければ、自分でアパートを借りるなどしなければならない。
課題は人手不足
―今後の課題は何ですか・
藤井 職員が集まらないことです。
―介護施設とは違いますが。
藤井 全然違います。相手はお年寄りではなく子ども達。家庭に代わる場所なので生活の中で子育て、子どもの世話をする仕事です。体力を使う仕事なので40代を過ぎると、新しい環境で仕事を覚えるまで大変です。

―藤井施設長はいつからこちらに。
藤井 私は施設長になってまだ3年目です。その前は加須にある児童養護施設で施設長をしていました。
―発智家は、今は施設に関わっていないのですか。
藤井 発智庄平のひ孫の発智金一郎さんが埼玉育児院後援会の会長を務めています。
(取材2025年2月)