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板橋競馬場跡に愛光舎牧場 角倉賀開く開く

板橋競馬場は明治43年(1910)に閉鎖され、広大な空地が残された。その一部に、大正2年、愛光舎牧場が移転してきた。

 愛光舎牧場は小児科医であった角倉賀道(すみのくら・よしみち、1857~1927)が明治32年に現在の巣鴨に開いた乳牛の牧場である。角倉家は、戦国時代から江戸時代初期の京の豪商角倉了以(りょうい)を祖に持ち、医者の家系であった。賀道も医師の道に進み、当時大流行していた天然痘の避病院で防疫に従事したことからワクチン改良の研究に着手。明治25年には強力なワクチン「再帰牛痘苗」の開発に成功、販売が急拡大した。ワクチン製造には多くの牛を必要とし、地方の農家への預け牛制度を取り入れる他、自ら牛飼いにも手を染めるようになる。明治29年に三崎町の名門牧場を買い取り、明治32年には巣鴨に移転、愛光舎牧場と名づけ、その後埼玉県大宮に大宮種牛牧場を開いた。

角倉賀道
角倉賀道(「実業の日本」誌、1909)

 ところが大正元年、巣鴨牧場が火災に遭い、元々巣鴨が手狭だと感じていた賀道は心機一転、大宮も閉鎖、新たに愛光舎板橋牧場を開設した。競馬場の跡地の一部と石神井川のほとり、面積は1万6千坪に及んだ。当時の石神井川は大きく蛇行し、牧場は島を含め川沿いに配置された。

愛光舎牧場(昭和5年頃、「東京昔と今 思い出の写真集」ベストセラーズ)

板橋牧場は、スタンション式衛生牛舎を採用、蒸気殺菌器など設備も最新式で模範的な牧場とされた。愛光舎の牛乳は衛生的であるとの評判を得て、各地の催しでは多くの賞を受け、東京でも1、2を争うほどに販路を広げた。

 賀道は、明治41年、東京・三崎町に所有する土地に中央バブテスト教会(現在の三崎町教会)を建設、社会事業に奉仕した。明治37年から12年神田区議会議員も務めた。昭和2年、古希の祝いの日、賀道は急死した。

 昭和の初めには、石神井川の河川改修、直線化工事が実施され愛光舎の施設の位置も変わった。以降、周辺の住宅地化が進み、大手乳業会社との競争も激しくなった。昭和14年頃、牧場は埼玉県朝霞に移転した。板橋の愛光舎工場では戦後昭和40年代頃まで乳酸菌飲料やヨーグルトなどが製造されていたという。

 愛光舎板橋牧場の跡地には、現在中根橋小学校、愛マンション(本館・別館)、都営住宅などが建つ。愛マンションは、角倉賀道の屋敷があった場所という。近くには、「愛光舎」の名を掲げる牛乳・食品店が今も店を開いている。もちろん「愛光舎」ブランドの牛乳は今はない。

愛マンション
愛光舎板橋牧場の跡地に建つ「愛マンション」
愛光舎のお店
「愛光舎」の看板で今も営業する食品店

 賀道が住み、愛光舎の本社があった東京・三崎町には、賀道が建てた三崎町教会と、牛乳の販売所だった「I-Kousya」というハンバーガーショップが残っている。

 (以上の記事は、板橋史談会の大澤鷹邇さん、板橋区生涯学習課学芸員の杉山宗悦さんのお話、大澤鷹邇「石神井川と愛光舎板橋牧場」=「板橋史談」第129号、村松和子「愛光舎牧場社主・角倉賀道の生涯」=「板橋史談」第203号などにより作成しました。取材2024年5月)

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