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名門霞ヶ関カンツリー倶楽部開設に尽力 大地主で篤志家であった発智庄平翁

川越市笠幡にある霞ヶ関カンツリー倶楽部。日本屈指の名門ゴルフ場で、2020年に予定されていた(2021年に延期)東京オリンピックのゴルフ競技開催地である。開場は昭和4年(1929)。このゴルフ場の誘致に尽力したのが地元の大地主であった発智(ほっち)庄平翁(1864-1936)であった。発智庄平は、尋常高等小学校の校長、銀行の頭取、育児院の院長など、数々の社会事業にも関わった篤志家でもあった。発智庄平と霞ヶ関カンツリー倶楽部の歴史について、庄平のひ孫にあたる発智金一郎さんにお話をうかがった。

鎌倉時代にルーツ

―発智金一郎さんは発智庄平翁の子孫ですか。

発智 ひ孫にあたります。発智庄平の次男、発智金治郎の孫にあたります。

―発智家は大地主だったわけですね。

発智 発智家は元々武士でしたが、江戸時代になってからは農民となり代々名主を務めてきたようです。

―ルーツは。

発智 今の長野県軽井沢町に発地という地名があります。鎌倉時代後期、北条貞時の時代、弘安4年(1285)に霜月騒動という政変があり、その際功績を上げたということで、発地に領地を安堵されたといわれています。その後、何らかの理由で正安元年(1301)に高麗郡笠幡村(現川越市)に移り住み、初代は発智太郎(光規)と名乗ったそうです。発智庄平は27代にあたります。

発智庄平
(霞ヶ関カンツリー倶楽部提供)

庄平の生家、繁田家は

―庄平翁は、入間市黒須の繁田(はんだ)家の出なのですか。

発智 庄平は、父繁田武平満義と発智家から嫁いだ母千代の長男として生まれました。千代の実家の発智家では千代のたった一人しかいない弟が若くして亡くなり、後継ぎがいなくなるということで、親族で相談した結果、繁田家の長男である庄平を発智家の養子とすることになりました。繁田家は、庄平の弟の繁田武平が後を継ぎます。繁田武平は、家業であった狭山茶製造業を発展させるとともに、明治26年(1893)27歳の時に豊岡町会議員に当選してから大正14年(1925)に町長を辞任するまで31年間にわたり豊岡町政に多大な足跡を残しました。

約10万坪の土地の提供

―ゴルフ場の建設はどういう経緯で。

発智 事の発端は、庄平が自ら設立した黒須尋常高等小学校の教え子たちが銅像を作ってくれることになり、昭和2年(1927)5月、除幕式が開かれた。そこに星野正三郎さんという人が招かれました。星野さんは庄平と一緒に日米生糸株式会社の役員をしていた人で、アメリカにもよく行き、ゴルフのことを良く知っていました。この銅像周辺の山林がほとんどの土地を庄平が所有していると知ると、ゴルフ場を造らないかと持ちかけました。庄平は興味を示し、調査を依頼。星野さんは持ち帰ってゴルフ場に詳しい藤田欽哉氏ら知人に相談したが、東京から遠く、起伏が少ない地形なのでダメだと。しかし庄平はあきらめず、ゴルフ場建設費として3万円(総工費12万円)を用立て、約10万坪の土地は数年間の無償貸与を条件に建設してほしいと提案。星野氏は各方面と相談の結果、建設に着手することになったのです。

―発智家はどのくらい土地を持っていたのですか。

発智 300町歩(90万坪=300ヘクタール)ほどはあったようです。

メンバーに政財界人が名を連ねる

―霞ヶ関カンツリー倶楽部が開場したのはいつですか。

発智 昭和4年(1929)10月です。

―どういう人たちが開設に参加したのですか。

発智 昭和4年(1929)2月、第1回発起人会が東京丸の内の帝国鉄道協会(現日本交通協会)で開かれました。発起人には、星野正三郎氏、発智太郎氏(庄平の長男)、藤田欽哉氏の他、石井光次郎氏、鳩山一郎氏、鹿島精一氏、近衛文麿氏、清水揚之助氏、後藤慶太氏ら、有力な政財界人を含め40名のそうそうたる人たちが名を連ねました。

現在の霞ヶ関カンツリー倶楽部正門

―ゴルフ場としてはかなり早い時期にできて名門になったわけですね。

発智 当時は国内にゴルフ場は少なかった。また昭和7年に拡張して36ホールになりますが、これは国内初でした。太平洋戦争による受難の時期もありましたが、昭和32年に霞ヶ関カンツリー倶楽部でゴルフの世界選手権と言われていた「カナダカップ」が開催され、中村寅吉プロが個人優勝、中村寅吉、小野光一プロが団体優勝しました。この時初めてゴルフ競技がテレビ中継され、以後ゴルフ熱が高まりゴルフ場も広く名を知られることになりました。

地域興し

―庄平翁はどういう思いで、このゴルフ場を作ったのでしょうか。

発智 ゴルフ場建設は村の活性化のため、地域のためを考えたのではないかと思います。事務員、作業員、キャディさんとして地元で多くの人が雇用されました。また、キャディは学校の子供たちも働いていました。そして、ゴルフ競技の精神は武士道の精神と相通じるものがあると考えたのだと思います。

―事業家で篤志家でもあった発智庄平の功績は様々な分野に及んでいるようですね。

黒須高等小学校

発智 庄平は埼玉師範学校を卒業し、若い時は教育者でした。明治20年(1886)に出生地である繁田家の屋敷内に黒須高等小学校(今はない)が開設され、校長に就任しています。明治24年(1891)には卒業生全員を黒須から笠幡まで徒歩、一泊して上尾まで徒歩、上尾から東京まで汽車で行き東京見物をさせています。その教え子たちが銅像をたててくれたのです。明治31(1898)に退職し、その後、自宅内に霞ヶ関青年道徳研究会を設立し青年の教育に尽力しています。

黒須銀行

明治33年(1900)には渋沢栄一翁に勧められて、今の入間市黒須に黒須銀行を庄平が頭取、弟の繁田武平が常務、ほか有志と設立し、渋沢栄一翁に顧問になっていただきました。黒須銀行は大正3年(1914)に武州銀行に吸収され、今の埼玉りそな銀行につながっています。黒須銀行の建物は今も残っています。

埼玉育児院

埼玉育児院は嵐山町大蔵にある安養寺の住職、小島乗真氏が大正元年(1913)、孤児を預かり寺の中に積徳育児院を開いたのが始まりです。同院は経営難に陥り、相談を受けた庄平は、渋沢栄一の協力を取り付け、大正7年(1918)、埼玉育児院を社団法人化して引き継ぎ、院長に就任。一時東松山に移りましたが、昭和2年(1927)に霞ヶ関村笠幡(現川越市)の自宅離れに、さらに翌年、現在地(霞ヶ関カンツリー倶楽部の隣接地)に移転しました。そして、現在も社会福祉法人埼玉育児院として、平成24年(2012)に創立100周年を迎えて60名子供たちが生活をしています。

村長

庄平は明治40年(1907)、霞ヶ関尋常小学校の敷地6300㎡を寄付し、明治42年(1908)には学校内に霞ヶ関実業補習学校を併設し、青年の教育にも尽力しました。また、大正3年(1914)から大正15年(1926)まで入間郡霞ヶ関村の村長を務めています。

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パブリックゴルフコースを作りたいという夢

―その後の発智家のゴルフ場との関わりは。

発智 庄平は「パブリックゴルフコースを作り大衆に開放すべきである」との考えを持っていた。しかし、晩年は床に臥せることが多く、夢は庄平の長男の太郎氏が引き継ぎ、霞ヶ関カンツリー倶楽部に隣に、もう一つのゴルフ場、「霞ヶ関パブリックゴルフコース」を開場させました。しかし戦時でもあり開業が困難となり、救済のため秩父カンツリー倶楽部が結成され、その後、東京ゴルフ倶楽部(朝霞から移転)と合併しました。東京ゴルフ倶楽部は、名門コースとして現在に至っています。庄平の夢は消え、ゴルフ競技が大衆化するにはその後、30年近くたってからでした。

発智金一郎さん

(取材2020年9月)

発智家家系図からみた近隣の名家との関係

発智家の歴史

 

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