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愚者の独り言⑤ 片仮名と横文字の氾濫 花見大介

デジタルトランスフォーメーション、リスキリング、エンゲージメント、サブスクリプション、LGBT、アクティビスト、セクリティー・クリアランス、ブレークスルー、スワップポイント、企業のブランディング、インクルーシブ教育、プラットフォーム事業、SAF、ESG,チャットGPT,ESG,へゲモニー、ポプリスト・・・。思いつくままにここで挙げた単語は最近、あるいは近年、マスコミなどで記載されているものだが、どれだけの国民が、どれだけの言葉を理解しているか。その道の専門家、よほどの勉強家、幅広い教養を身に付けている人、仕事で使い慣れている人などを除けば、大半の人は顔をしかめて考え込むか、わからないと答えるかだろう。

 新聞やテレビ、雑誌や広告誌などには今、片仮名や横文字が氾濫している。言葉悪く言えば横行している。国民の多くが、ことに年齢を重ねるにつれ、こうした状況に直面して生活のしづらさ、疎外感、不快感などを味わっているのではないかと推測している。言葉を換えれば、年齢を重ねるにつれて住み心地が悪くなるということだ。

だからと言って、片仮名や横文字が悪い、失くしてしまえ、などと硬直的に考えているわけではもちろんない。リスク、チェーン、ハード、ソフト、シナリオ、ダイナミック、デートなど我々が外国語と意識することもなく使っている言葉は少なくないが、それらまでを排除せよと言っているわけではない。それらは半ば日本語化していて、長い歴史があるからである。言いたいのは、わざわざ、あるいは意図的に横文字を片仮名で表記するのはできるだけ避け、日本語化する工夫ができないかということだ。

 問題は、片仮名や外国語を使わなくていい言葉を、それも片仮名で表現し、それにカッコを日本語で付けると例が多々あることである。最近、ある新聞紙上に「チュートリアル(議論)」という表現を目にした。記事を斜め読みしただけだが、文脈から考えて、あえて片仮名で英語表記する必然性を感じなかった。チュートリアル=議論という訳にも疑問符がつく。「カッコつけるな」と言いたくもなる。こうした外来語に日本語をカッコ書きする無駄と思える表現は、いくつもある。最たるものは「リスキリング」かな。「学び直し」という立派な言葉があるのに、なぜ外国語を主に据えた言葉に日本語でカッコを付けるようなことをするのか。わざわざ難しい言葉を使うことなど無駄というものだ。理解に苦しむ。知的特権階級を自認する人のおごりではないのか。「アクティビスト」もモノ言う株主でいいではないか。日本語の方がずっと分かりやすい。

 こうした日本語や外国語の片仮名化やアルファベット化は、国内のいたるところに広がっている。例えば株式市場。多くの機関投資家の投資対象となるにふさわしい時価総額のあるとされる企業が上場する東証プライム市場約1、800社の中で、社名が片仮名の日本語または外国語、あるいはアルファベットの企業がいかに多いことか。詳しく調べたわけではないから断言できないが、株式欄をざっと見て食品業界は上場企業の3分の1、化学は過半、商業や繊維、情報通信では片仮名が圧倒的である。電気.機械、輸送機械でも片仮名が幅を利かす。漢字の社名では、鉄鋼と金融機関がかろうじて多数派となっているのが目立つ程度。片仮名やアルファベットの社名だと、その会社がどのようなビジネスを展開しているのか、とても分かりにくいことが少なくない。

法人企業や外国を相手にしている企業ならそれで済むのかもしれないが、生活に欠かせない日用品をはじめ消費財などを販売している企業には、分かりにくい社名は販売促進にプラスにならない気がする。新聞紙上に最近、ある企業が社名を変えたいという社長の方針を紹介していたが、その会社は消費生活に密接にかかわっている。その会社も社名を片仮名表記に、それも現社名から予想しにくいものとしたいのだという。「分からなくても差し支えない」そうだ。これも日本語をめぐる流れを象徴する一例なのだろうか。

こうした広い意味での横文字文化の傾向を見て思い起すのが、中国における日本語の導入である。話は少し古くなるが、1894年から95年にかけての日清戦争で負けた中国(当時は清国)は、戦争に敗れたのは日本に比べて科学技術や文化面などで劣っていたからだと反省、留学生を大量に日本へ送って挽回を図った。留学生が帰国後、持ち帰った技術や文化、制度や慣習などの中に、おびただしい数の日本語があった。そのほとんどが、明治時代に日本人が考え出したものである。政治、経済、議会と言った言葉をはじめ、原子、市場、銀行,証券、資本主義、哲学、時間、革命など枚挙にいとまない。あまり知られてはいないが、現代中国で使われている中国語の70%前後が日本語という説もある。中国の国名の中の人民、共和国も日本製である。韓国、台湾の事情も似たようなもの。簡体字ではなく繁字体を使っている台湾へ行くと、日本にいるのかと錯覚するほど、日本語そのものの看板をあちこちで目にする。

漢字の話を持ち出したのは、ほかでもない。日本人には日本に実在しなった言葉を実態に適合させるかのように、発明、開発する優れた能力があるのではないか、ということを言いたかった。無定見に外国語をそのまま受け容れるのではなく、うまい言葉を考えたらどうか。明治時代の人の知恵を少しは見習ってほしいということだ。それが日本語という歴史ある文化を守ることになる。日本語も満足に話せない、理解できない子供に英語を教えるよりも、美しい日本語を話せる人を育てていくことが先決ではないか。外国語の勉強は分別を身に付けてからでも決して遅くない。それが、今は薄れてしまった国を想う心を育てていくことになる。

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子供の増えない国に成長はなく、自国の言葉を大切にしない国に発展はない。科学技術は文化の質や力の強い国から低い国へと流れるきらいがあるが、現今の日本語の片仮名化、アルファベット化全盛は、日本文化の劣後あるいは退潮を示すと言ったら言い過ぎだろうか。行き着く先は知的殖民地。日本語の変質は、グローバル時代の落とし子と言ってしまえばそれまでだが、欧米人のようにボートピープルをためらいなく養子にすることができることが、真のグローバル化というものだろう。それなくしてやたらと横文字へと走るのは文化後進国の道をたどるだけだろう。戸惑いと失望とを織り交ぜながら、そうした想いを新たにした。

花見大介 :元大手経済紙記者、経済関係の団体勤務もある。近年は昭和史の勉強のかたわら、囲碁、絵画に親しむ。千葉県流山市在住  

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