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商業の中心地であった引又(志木市) 新河岸川舟運河岸と奥州道宿場、六歳市のにぎわい

現在の志木市の中心部、志木街道沿いの本町は昔、引又と呼ばれた地域で、江戸時代から昭和にかけて近隣の物資が集散する商業の町として栄えた。奥州から甲州に向かう間道(奥州街道)の宿場(引又宿)が置かれ、新河岸川舟運の河岸(引又河岸)が開かれ、毎月にぎやかな市(江戸期は「三八の市」、明治以降は「二七の市」)が立った。早くから陸上交通と水上交通の要衝で、東上沿線の商業の中心地であった引又の歴史を振り返ってみたい。

以下の記事は、郷土史家の深瀬克(まさる)さん=志木市文化財保護審議会委員・田子山富士保存会副会長のお話、神山健吉著『武蔵の商都「引又」の栄光』(まつやま書房)などにより作成しました。

旧引又地区(現在の志木市本町)、志木市役所方向を望む

引又の開発、「草分け三苗」

現在の志木市中心部の本町(4丁目と6丁目の一部を除いた地域)は、江戸時代から明治7年まで引又宿という行政区画だった。江戸初期までは舘本村の一部だったが、奥州と甲州を結ぶ奥州街道が利用されるようになると、舘の三上弾左衛門が息子2人を連れ開発。三上家と、現在の富士見市鶴馬から星野、東京・西多摩の村山家が来住し、「草分け三苗」として地域の立役者となる。

引又河岸、回漕問屋は三上家と井下田家が担う

寛永15年(1638)の川越大火後、東照宮再建のための物資の輸送を主目的に新河岸川舟運が開かれ、早い時期に引又河岸も設けられた。明暦2年(1656)には、井下田家が川越藩から回漕問屋を仰せつかっている。引又の回漕問屋は、代々名主も務めた三上家と井下田家が競い合った。

引又河岸跡

引又河岸説明板

舟運で江戸から運搬してくる物資で最重要は肥料であった。穀物商・肥料商・酒造業・金融業を多角的に経営した者が業容拡大し、大商人・大地主になって行った。こうした中で、西武(にしぶ、西川分家)は、戦前にかけ県下最大の地主になった。

引又宿

奥州と甲州を結ぶ奥州街道(現在の志木街道)は、粕壁、岩槻、与野から日野に抜ける間道で、引又宿の成立は明暦年間(1655-58)とみられる。ほぼ同時期に街道に沿って野火止用水が引かれた。引又宿は、大名が通行するのはまれで本陣など本格的な宿泊施設はなく、もっぱら商人、一般庶民の利用で、ほぼ軌を一にして三八市が成立する。

奥州街道と引又位置図(神山健吉『武蔵の商都「引又」の栄光』より)

市場は月に6回開催する六歳市、スリが出るほどにぎわう

引又に初めて市が立てられたのは舟運や宿場が整備された寛永から明暦にかけての時期。志木、近隣数十か村の住民に生活必需品や農業に必要な肥料、苗、農機具などを提供した。月に6回開催する六歳市で、明治以降は二七の日に開かれた。

引又の市場地区の奥州街道は、二本の道路にはさまれた中央に野火止用水が流れる形態だった(戦後東京オリンピック時用水が暗渠に)。用水の両岸、銀杏の並木の下、数百㍍にわたって店舗が並んだ。引又市は昭和30年代までは続き、現在でも近くの敷島神社境内で5、6月だけ開かれる。

引又宿絵図(志木市郷土資料館)その1

引又宿絵図(志木郷土資料館)その2

市場の近くで育った深瀬克さんは、「私は昭和32年まで小学校に通いましたが、毎年2月2日は初市で、授業は午前で終わり、午後は市に行きました。お客さんは近在の富士見とか朝霞の方からも来る。ものすごい混みようで、身動きできずスリが出るくらいでした」と語る。

豪商と大地主

引又の繁栄は多くの豪商、大地主を輩出した。慶応2年(1866)の武州一揆のうちこわしでは引又で7軒が被害を受けた。戦前に埼玉県下最大の地主であった西武(西川分家)は土地所有のピークを過ぎた大正13年で275町歩の農地を所有、三上家も同じ年、53町歩の田畑を保有していた。

しかし、大正3年東上鉄道(東上線)が開通、舟運の役割が低下、引又も衰退に向かう。そうした中、井下田慶十郎は志木駅開設に尽力、西川武十郎も多額の寄付をするなど、志木の有力者は新しい時代に向けて篤志家として動いた。

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史跡 国の登録文化財となっている朝日屋原薬局

引又の名残を伝える史跡としては、市場坂上にある西川家の潜り門、明治45年建築で国の登録文化財となっている朝日屋原薬局、いろは親水公園に移築されている明治10年建築の村山快哉堂などがある。

西川家潜り門

朝日屋原薬局

引又の繁栄・財力を示す田子山富士塚

引又の通りから少し入ったところに立つ田子山富士塚は、明治2年着工5年に完成した。今年150周年を迎える。

田子山富士塚

高さ9m、麓の円周125m。主な特徴は①1合目には鈴原神社、2合目には御室浅間神社と、実際に吉田口から登ったのと同じ、富士山そっくりに造ってある、②作った当時の姿のままをとどめている、③山開きや山仕舞いなど行事を続けている―など。富士塚の典型例とされ令和2年国の重要有形民俗文化財に指定された。

田子山富士保存会の副会長を務める深瀬克さんは、「この富士塚は、引又の繁栄・財力と、地域の平安を願う信仰の力の両方を示します」と言う。

敷島神社

富士塚が位置する敷島神社は、元々あった浅間神社と星野家の稲荷、村山家の稲荷、三上家の水神様を合祀し、明治41年に創建された。

敷島神社

大地主であった西武は昭和11年、教育勅語などを納める奉安殿を志木小学校の校内に寄贈した。神明造の立派な建物で戦後、敷島神社の本殿として移築された。

深瀬克さん

(取材2022年5月)

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