背広姿の中年の男性が難しい表情で机に向かっている―。自由美術協会などに出展している画家、東谷弘子さんの絵は、題材が風変わりだが、観る人に人生の深淵を考えさせるような強烈な迫力がある。東谷さんは、「人間の普遍的なものを描きたい」という。東谷さんは今、難病パーキンソン病におかされながら、人間を描くことの追求をやめることはない。
東谷弘子(ひがしたに・ひろこ)
1975 | 女子美術大学芸術学部絵画科洋画専攻卒 |
1986 | 自由美術協会 佳作作家賞 |
1987 | 自由美術協会 会員 |
1995 | 女流画家協会 船岡賞 |
1999 | 女流画家協会 会員 |
1999 | 自由美術協会 平和賞 |
2001 | 女流画家協会 第55回記念賞 |
2006 | 女流画家協会 上野の森美術館賞 |
2008 | 女流画家協会 委員 |
2010 | 女流画家協会 退会 |
高校の講師をしながら描く
―出身はどちらですか。
東谷 福岡県の大川です。となりの柳川にも住んでいたこともあります。柳川は母の実家がありました。父は私が4歳の時亡くなりました。
―絵を志したのはいつからですか。
東谷 小さい頃から絵を描いていました。小学校4年生の時に、福岡県の「夏休みの友」、「冬休みの友」の表紙を描いた。それで絵を描いていこうと思うようになりました。
―美術の大学に行くことにしたのは。
東谷 美大に行こうと思ったのは中学3年くらいからです。予備校はお金がいるので行けなくて、たまに久留米の美術の先生ところまで通い、女子美術大学に合格できました。
―大学では特定の先生に師事したのですか。
東谷 そういうことはなかったです。絵描きになるにはお金がいるので教師になろうと思っていました。。
―高校で美術の先生として勤めたのですね。
東谷 講師です。39年間勤めました。
自由美術協会と女流画家協会に所属
―画家としては自由美術協会と女流画家協会に所属した。
東谷 自由美術は37歳の時会員になりました。女流は、私は一人でやっていたから賞がこなかった。もうやめようと思ったら賞をいただき会員になった。しばらくして委員になったのですが、病気(パーキンソン病)になってしまい退会しました。
―2団体に所属してどのくらいのペースで制作してきたのですか。
東谷 展覧会は年2回ですが、会員になるまでは3点描いて1点通る。年4枚くらい描いていた。会員になるまでがくたびれました。子どもを産んだ時は特にたいへんでした。
―サイズは。
東谷 今まではS100サイズ(正方形、162*162)が主です。
人間の普遍的なものを描きたい
―東谷さんの絵はちょっと変わった絵です。
東谷 「暗い」とか「怖い」とか言われます。
―何を描こうとしているのですか。
東谷 人間の普遍的なものを描きたい。人間はすばらしくもあり、醜くもある。自分自身それを感じ、自己を表現しているのだと思います。
―登場するのは人物、それも男性が多いです。
東谷 男が面白い。女は、今は少し面白くなってきましたが、遅いのです。男は人生を賭けている。男はやりたいことをやるが 女はなかなかそこまでいきません。
―男でも背広姿のサラリーマン、働いている人が題材になっている。
東谷 人間は、緊張して忙しく働いている時がいいんです。日本が一番活力があった、高度成長の時代は面白かったと思います。
―モデルになる人がいるのですか。
東谷 出会った人で、印象に残った人を記憶にとどめておいて描きます。最近もある方の顔を見て泣いてしまいました。自分も重い病で奥さんも難病で二人で暮らしている。たいへんな夫婦。決断をされたんだと思った。そういう人を見ると、人間のすごさみたいなものを感じます。
―描かれる人がご主人(故東谷雅明氏)のイメージと似ているように見えます。
東谷 よく言われます。だけど主人を描いたわけではありません。
―絵を売ろうとはされないのですか。
東谷 私の絵は、絵がしゃべり過ぎなんです。売るという意識はありません。お金にはならないが、仕方がありません。私の絵を見てよかったと言ってくれる人がいたらいい。だから美術館に置いてもらいたい。
ツバキとケイトウ
―静物も描く。
東谷 花はツバキとケイトウ。ツバキはポトッと落ちる。それが面白い。土に落ちて肥料になるじゃないですか。むだに落ちていない。ケイトウは、30年くらい前近くの農家に生えていた。1m50㎝くらい。ビックリしてお饅頭持って行って、買ってきた。脳みそみたいになっていた。ここでいっぱい描いてためていました。
―魚。
東谷 これは28歳の時描いたタラの頭です。子どものオシメを替えていた。友達が芸大に入ったとか、フランスに留学するという電話も来る。私はオシメ替え。その孤独感と、ここでがんばらなくちゃと思って、あんな絵を描いたのです。だからタラの絵は離せない。皿の上に載っているのは私なんです。
パーキンソン病
―2010年にパーキンソン病になり、女流を退会した。
東谷 自分のことで必死にならなければならなくなりました。
―それからずっと体が不自由なのですか。
東谷 最初の5年間はなんともなかったのですが、10年過ぎから歩くのがきつくなった。
―それでも絵を描き続けている。
東谷 たいへんだけど毎年出しています。女流をやめたら寂しくなりましたが、自由美術は自由で、それがよかったです。今年は、えんぴつだけで、色を塗っていない。方向を変えました。
―小さい絵にするのですか。
東谷 大きなものは立ったり座ったりがきつい。大きいものを描きたいけれど、小さくても大きいものに匹敵するものを描かなければいけません。昔の人たちは、小さい絵が多い。大きな絵はそれだけで威圧するがそれはダメ。小さい絵に持っていくのが本当ではないかと思っています。
―今後も描き続けますか。
東谷 続けていけるかどうかわからないが、体が許せば続けていきたい。
病気は別の世界に連れていってくれる
―今まで50年を振り返ってみて。
東谷 幸せです。好きなことをやってきました。絵に当たってよかった。いつ死んでもいいと思っています。もう少し元気にはなりたいけれど、ちょうど私に神様が与えたことなんだと思って。
―病気が転機で、新しい展開が開けることもありえます。
東谷 私はゴヤが好きなんです。ゴヤはパッションがある。ゴヤは宮廷画家になったが、王族の絵を描いて、それがいやになった。その時戦争が始まり、そこですごい絵を描いた。その後耳が聞こえなくなり、一人で住んで描いた絵が今残っている。北斎もすごい。70いくつで死にそうになったけど娘さんが看病して生き延び90まで生きた。娘がいたんでよかった。娘はお父さんを尊敬していたんですね。北斎は波の形なんかすごくいいです。
私はこの病気は私を別の世界に連れていったのかなと。だから私は病気をしているとチャンスが来るかなとは思っています。
(取材2023年12月)