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越生に散った若き志士 渋沢平九郎展

渋沢栄一の従兄弟で養子であった渋沢平九郎は維新時、彰義隊・振武軍に参加、飯能で新政府軍に敗れ、黒山(現越生町)に逃れたが見つかり、奮戦・自刃した。大河ドラマ「青天を衝け」放送を機に、「越生に散った若き志士 渋沢平九郎展」が、越生町越生駅構内にある「道灌おもてなしプラザ」で開かれている。

平九郎自決の地

「渋澤平九郎自決の地」の碑は、梅園青年団と八基
村(現深谷市)青年団の呼びかけで、昭和29年に建立された。題字は渋沢栄一の孫、渋沢敬三。裏には埼玉県文化財専門委員山口平八撰文の平九郎の生涯が刻まれている。碑の近くには、自刃する際座した「自刃岩」と「平九郎グミ」と呼ばれる木がある。

平九郎の墓

自刃後、平九郎の首は今市宿(現越生市街)に晒され、骸は黒山の全泂院に埋葬された。明治6年、栄一は平九郎の遺骸を東京・谷中の渋沢家墓地に改葬、その後「澁澤平九郎の墓」が建てられた。昭和39年には越生駅前の法恩寺に「澁澤平九郎埋首之碑」が建立された。

平九郎の追懐

明治32年、栄一は尾高惇忠とともに振武軍が本陣を置いた飯能の能仁寺を参詣後、越生の生絹仲買商・島野伊右衛門宅(現金子家住宅)に投宿。翌日、平九郎

自決の地と墓を詣で、全泂院で法要を行った。栄一は明治45年にも墓参に越生を訪れている。能仁寺には、平九郎の姪孫の尾高豊作の「唱義死節」碑が建立されている。

(取材2021年3月)

渋沢平九郎記事はこちら

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