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長谷川清の地域探見(28)久しぶりに越生梅林を訪ねました

2月下旬、恒例の梅まつりが開催されている越生の梅林を訪ねました。私が前回ここを訪れたのは30年以上前のことです。この間、時代は20世紀のアナログ時代から21世紀のデジタル時代に移り、周囲の風景も大きく変りました。でも、梅林に咲く花には変わりがありません。今年は厳しい寒さが続いて開花した梅の木は限られていましたが、開花して花たちは、冬の青空を背景に凛とした佇まいを見せて私を歓迎してくれたようです。

越生梅林
越生梅林の風景

越生梅林の歴史

越生梅林は東武越生線の終点越生駅から1キロほど離れた越辺川沿いに広がる梅林です。梅林には白加賀・八重寒紅・越生べに梅など30種を超える梅の木約1千本植えられ、中には樹歴650年以上もの古木もあって、水戸の偕楽園、熱海の梅園と並ぶ関東三梅園の一つに数えられているそうです。

地元観光協会HPによると生越梅林の歴史は、1350年頃に九州の太宰府天満宮から小杉天満宮(現梅園神社)を分祀(ぶんし)した際、菅原道真にちなんで梅を植えたのが起源であるとされています。道真は若い頃から梅の花を愛で、道真ゆかりの大宰府天満宮だけでなく、道真を祀る全国の天神や天満宮は梅の花を神紋(民間の家紋に相当)にしています。その太宰府天満宮から文祀された小杉天満宮でも敷地内に梅が植えられたのは自然なことでした。

当時は鎌倉幕府が滅亡した直後で、京都で朝廷が南朝と北朝に分裂したいわゆる南北朝時代に当たり、越生を含む武蔵国も地侍達が覇権を争う不安定な社会だったと想像されます。この事態に地域の人々は、社会の安定と心の安寧を祈るために縁があった天満宮を分祀したのではないでしょうか。小杉天満宮は明治時代に他の神社と合祀された梅園神社となり、現在は越生梅林の脇を流れる越辺川を挟んだ所に鎮座しています。

梅園神社
梅園神社

小杉天満宮が分祀された当時、梅の木は邪気を払うと信じられていたようで、貴族の庭園や寺院、神社の敷地に植えられ、梅の実は神仏への供え物として使われていました。したがって神社周辺に植えられた梅の木に実る梅の実だけで賄われていたのでしょう。でも、時代が移るに従い梅の実に対する需要が拡大すると、神社周辺の梅の木だけでは賄いきれません。

越生で梅林が造成されたのは、小杉天満宮が創建されから大分時が過ぎた時代のようですが、地域の産業活動に関心を持つ私としては、越生で生産された梅の実の需要者は誰だったのか気にかかります。また梅の実を栽培するには人手が必要で、働く人々を集めて彼らを指図し、収穫に結び付ける仕組みと管理者がいた筈です。1955(昭和30)年に越生梅林の周辺は梅園村(うめそのむら)と呼ばれていたようで、梅園村の住民は、多くが梅林関係者だったのではないかと想像します。

重要なのは、彼らの仕事ぶりです。世の中の仕事は全て成果を上げ続けないと存続することが出来ません。越生梅林が誕生して今日までの長い歴史を通じて梅林の梅栽培は途切れることなく続いてきたこと自体、梅林で働いた方々のご苦労の賜物です。

また農作物の場合、成果を上げるためには自然風土も重要な要素です。一般に梅の木は、日当たりと水はけが良ければ土壌をあまり選ばず育つ植物とされますが、越生の自然風土は梅の木にとって余程具合が良かったのでしょう。今でも越生駅から越生梅林に向かう県道61号線の沿線には多くの梅の木を見ることができ、梅の実は越生町の特産品となっているのはそれを物語っています。

ただ梅の実は桃やリンゴなどのように果肉を生で食べる果物ではなく、昔も今もほとんどが梅干しに加工されて食べられています。と言うことで、ここから話は「梅干し」に変わります。

梅干し

梅干しの起源は古代中国で、紀元前3千年頃に梅を塩漬けにして保存食として利用していたようです。その後、梅干しは中国から日本に伝わり、奈良時代(8世紀頃)には日本でも梅干しが各地で作られました。

梅干しは栄養素が高く、かつ軽くて嵩張らないため持ち運びが楽な携帯食で、かつ食品の保存剤、血止め、食中毒や伝染病予防などの効能も併せ持った今で言う機能食品です。先程、越生梅林が開かれた時代は南北朝時代だと言いましたが、その後に続く室町時代は日本の歴史に残る戦国時代でもあり、各地の戦国武将は梅の栽培を奨励し、全国各地で梅干しが作られました。それは戦国武士が機能食品としての梅干しを評価したからでしょう。当時の東国武士も越生で作られた梅干を食べたのかも知れませんね。

冒頭で紹介した越生梅林で栽培されている梅の木の中で「越生べに梅」は、梅の実の表面が紅色を感じさせる越生固有の品種だそうです。梅林で土産物を販売している方にお聞きすると、「べに梅の実は香りが高く薄皮で種が比較的小さくて、果肉が厚いため梅干しに向いています」と答えてくれました。

越生産べに梅の梅干し
越生産べに梅の梅干し(出典)越生町HP

戦国時代が終わり、平和な江戸時代に入ると梅干しは一般庶民の食卓にも上るようになりました。梅干しは料理の風味付けや漬物の材料として活用され、酒のお供としても愛されるようになりました。このため需要が急速に拡大して越生から江戸市中に向けて沢山の梅干しが出荷されたようです。江戸時代の文化文政期(1804~29年)に武蔵国の地誌を記録した新編武蔵国風土記には、梅林に隣接している津久根村について「沢山の梅に木が栽培され、梅の実を梅干にして江戸に送っている」旨の記述があるそうです。ここから私は、越生梅林が造成され、梅干しを大量に生産するようになったは江戸期前半の頃ではないかと想像したのですが、ご専門お方は如何お考えでしょうか。

現代でも梅干しが日本の食文化に欠かせない食材になっています。塩分や酸味が豊かな梅干しは米飯の副食としてだけでなく、梅干しを漬け込んだ梅酒や梅シロップなどの飲料も広く親しまれています。梅干しを使った料理も広がりを見せています。「揚げ豚の梅アンかけ」、ネーミングを聞いただけでも食べたくなりますね。

梅干しは、日本の四季や風土を反映した食品として、文化的な意味も持っています。梅の花は春の象徴とされ、その花が実を結ぶ様子は日本の季節感を象徴するものとして詠われてきましが、梅干しは日の光が強くなって気温が上がる夏場に作られることから俳句の季語として使われています。

梅干して人は日陰にかくれけり(中村汀女)

近年では、梅干しの健康効果が評価されています。梅干しに含まれるクエン酸やポリフェノールは、抗酸化作用や免疫力の向上に効果があることから一日に一個の梅干しを食べることを勧める方もいます。最近は日本食の浸透に併せて輸出される梅干しも増えているようです。この先、越生産の梅干しも輸出されて、ニューヨークやパリでも口にできる日があるかも知れませんね。

万葉集にみる梅の花

最後に梅の花に話を戻します。日本に梅の木が伝来したのは今から1500年ほど前の飛鳥時代と言われます。その可憐で淡い香りを放つ花は、春を呼ぶ花として直ぐに日本の人々に受け入れられました。その証拠に万葉集には梅を読み込んだ歌が百を超し、桜を大きく上回ってるとのことです。以前、本欄にも登場いただいた万葉集研究者の大沢寛さんにお薦めの歌をお聞きしたところ、次の歌を教えてくれました。

梅の花 香をかぐはしみ 遠けども 心もしのに 君をしぞ思ふ     (市原王)

(歌意:梅の花の香を貴ぶように、お慕いする心が強い余り、かえって遠ざかって失礼を致しましたが、心はいつも撓うばかり貴方の方に寄せているのです)

ロマンチックな歌ではないですか。お陰で本欄の格調が一気に高まりました。大沢さん有難う!

長谷川清:全国地方銀行協会、松蔭大学経営文化学部教授を経て2018年4月から地域金融研究所主席研究員。研究テーマは地域産業、地域金融。「現場に行って、現物を見て、現実を知る」がモットー。和光市在住。

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