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長谷川清の地域探見(26)経済記者を虜にした大阪の経済社会 大塚融氏に聞く

本欄では2年ほど前から数寄者研究家として活躍された元NHK経済記者の大塚融(おおつかとおる)さんに対するインタビュー記事をお届けしましたが、残念なことに大塚さんはこの10月に逝去されました。大塚さんが大阪で取り組んだ取材活動は、大阪の社会風土が育んだ経営者や職人に着目し独自のもので、NHKを退職した後も数寄者研究者を名乗って活動を続けられました。大塚さんの経済社会を見る目は周囲に大きな影響を与えました。本欄のタイトルに使用した「地域探見」という言葉も、地域社会を理解するには「地元に行って、地元の空気を吸いながら地元の方々と交流することが不可欠」とする大塚さんの考えを基にした造語です。今回の原稿は、今年春に原案を作成し、まだ元気だった大塚さんから原則的な了解をいただきましたが、細部の詰めを行う段階で大塚さんの体調が悪化して未定佼となっていたものを精査し、公表するものです。

大塚融氏
故・大塚融氏

千里ニュータウンから始まったトイレットペーパーの買い占めパニック

長谷川 大塚さんは、1974(昭和49)年の秋に東京経済部から大阪報道部に異動されました。当時はニクソンショックに続く第一次のオイルショックがあって、日本だけでなく世界的に経済社会が大混乱していました。

大塚 そう、私が大阪に赴任する前年の1973(昭和48)年秋に、日本列島は大阪を震源地にした物不足のパニックに襲われました。当時、私は霞が関の農林省記者クラブにいて、大阪で高騰した原油に直接関係ない味噌や塩など食料品が次々に買占められて市民がパニック状態になっているという情報を掴んでいました。でも東京では、大阪のような話しはまだ聞こえてきません。同じ消費者でも大阪は東京と違うのかなと漠然とした印象しかありませんでした。ただその前に、私は兜町の記者クラブにいて、仕手銘柄と呼ばれていた大阪証券取引所に上場されていた中山製鋼所や三光汽船などの株価が大きく変動することがあって、その都度に証券会社の人々が「西筋が動いたか」といった会話を交わしていたので、株式投資に縁がなかった私も関西には関東とは違う社会風土があることを知りました。

長谷川 大塚さんが大阪に赴任されて間もなくの頃ですが、様子を聞くため電話した時、開口一番「大阪は面白い所だ」と嬉しそうに仰ったのを今でも記憶しています。またその際、千里ニュータウンを取材されたこともお聞きしました。

千里ニュータウン
開発当時の千里ニュータウン

大塚 トイレットペーパーの買い占めパニックの震源地は、千里ニュータウン内にあった大丸ピーコックであるということは既に聞いていまして、大阪に転勤すると真っ先に大丸ピーコックの千里ニュータウン店を取材しました。私の取材方法は、現地に行ってできる限り多くの方々から話を聞くことを基本にしています。ですから私は、大丸ピーコックの店長にインタビューしただけでなく、近隣の古江台地区や青山台地区の住民にも取材して地区毎の消費者行動の違い、千里ニュータウンの住民が暮らしている住戸の構造、住民の暮らしぶりなども確認してパニックが起きた要因を多角的に探りました。

長谷川 大塚さんの取材で、なぜ大阪の千里ニュータウンでトイレットペーパーの買い占めパニックが起きた事情がどこまで明らかになったのですか。

大塚 千里ニュータウンに住む人々は、比較的豊かな今で言う中産階級を形成していた方々で、どの家庭にもテレビ、冷蔵庫、洗濯機、電話があって、多くの子供は地元の小中学校に通学していました。ニュータウンは、全戸に水洗トイレが完備され、しかも8割以上の住戸が集合住宅でしたので、もしトイレットペーパーを切らしたら日常生活に支障が起きるという意識が共有されていたと思われます。

その後できた東京のニュータウンでも、住民は同じような環境で暮らしていましたが、東京の人たちに比べると大阪人は金銭感覚が敏感なようです。トイレットペーパーは日常生活の消耗品で、どの家庭でもストックを持つのが普通です。オイルショックによりいろいろな商品の価格が上がり、トイレットペーパーも先行き値段が上がるだろうという不安心理が広がっていました。

そうした状況にあって、大丸ピーコックの大丸ピーコック千里中央店(その後、千里大丸プラザ、オトカリテと名称を変え、令和5(2023)年4月に閉店)が、お一人様一個限りのトイレットペーパー特売を行ったところ、予想を上回る住民が押し寄せてすぐに完売してしまいました。この情報は直ちにニュータウン全体に伝わってトイレットペーパーを安いうちに買っておこうという住民の意識を加速させたと思われます。その動きは千里ニュータウンだけでなく周辺の地区にも及んで、買い占めの対象も日用雑貨から味噌、醤油、小麦粉などの食材と拡大しました。

この模様をテレビや新聞が報道すると、二週間ほど後には関東にもモノ不足パニック騒ぎが伝播し、さらに日本列島全体が不安心理で覆われました。静岡県の豊川信用金庫が根拠のない噂話しから取り付け騒ぎを引き起こしたのもこの時期です。

これに危機感を抱いた政府は、既に決まっていた米価と国鉄運賃の値上げを半年間凍結することを決め、当時の福田副首相が坦々とした表情でテレビカメラに向かって国民に冷静な購買行動を求めました。この効果があったのでしょう、暫くすると国民の不安心理も薄らいで社会不安は沈静化し始めてモノ不足パニックも収束していったのですが、私は火元になった千里ニュータウンに暮らす方々の住民心理に興味が残りました。

大阪の社会風土

長谷川 この時期は、ニクソンショックにより外国為替が変動相場制に切り替わり、世界的に経済が混乱する中で第一次のオイルショックが起きて、混乱が増幅されてしまいました。当時、私は大学院生でしたので、経済の現場を知らずにいたのですが、原油価格の値上がりとトイレットペーパーの買い占めパニックが理解できないまま物価問題を報道するテレビ画面を眺めていました。

大塚 マスコミ報道を通じて全国にあらゆる物の値段が上がるのではないかという不安心理が広がったのは確かだね。経済記者として仕事をしていた経験で言うと、経済問題の扱いは難しく、テレビ番組で流す報道はどうしても表面的な動きに終始する傾向があります。また当時から民放テレビはニュースショウに力を入れて、経済問題も芸能人のゴシップと同列に扱うようになっていました。トイレットペーパーの買い占めパニックは、彼らにとって絶好な報道ネタで、結果として消費者の不安心理を煽ってしまったのではないでしょうか。

私は、千里ニュータウンで起きたパニックを取材しながら、目先の利益を過大に評価するという住民の心理状態を生み出した大阪固有の社会風土に興味を持つようになりました。とりわけ企業の経営と地域の社会風土の関係は、研究者だけでなく地域社会と密接な関係がある筈のマスコミでも関心が薄いのが実情です。そのような問題意識から私は、経済記者として大阪の社会風土と企業経営の実像を時間をかけて掘り下げた取材がしたくなって大阪に骨を埋めることにしたのです。

長谷川 そのお陰で私も大阪に行く機会ができ、大塚さんにいろいろな所をご案内いただきました。その道中でお話もたっぷりお聞きできたのですが、大阪固有の社会風土と言われてもピンときません。もう少し具体的に話してもらえませんか。

大塚 長谷川君も知っているように、大阪は江戸時代に日本全国から物資が集中して天下の台所と呼ばれ、明治以降も商業活動が活発な日本を代表する商業都市です。大阪には独自の町人文化が形成されて、旦那衆の間から以前話した数寄者の生まれました。でも現実の大阪は、膨大な庶民が暮らす庶民の町で、庶民の間には「目先の実利」を追求する一方で「人の情愛」を大切にする独自の社会風土が形成されています。

そうした大阪の社会風土は戦後になっても根強く残っていました。日本で最初の安売り店として成功した「主婦の店ダイエー」は大阪の社会風土から誕生して、創業者の中内功さんは日本の流通革命をけん引しました。今は大分様子が変わってしまいましたが、私が赴任した当時は街の商店で客が値切ったりオマケを要求するのはごく日常の姿でした。仲間の話では、大阪の百貨店でも買い物するご婦人が売値を値切る姿を見かけることが間々あるようです。

政治にも大阪特有の風土があって、権力に歯向かって庶民の味方と思われる候補に票が集まる傾向があります。私が大阪に赴任する前の昭和43(1968)年に漫才師の横山ノック氏が参議院議員に当選し、平成7(1995)年には大阪府知事に選出されています。同じく漫才師の西川きよし氏も昭和61(1986)年に参議院議員に選出されて3期18年も務めたのは大阪ならではの現象でしょう。漫才師だから国会議員や府知事になるのは問題というわけではありません。大阪には地味な活動を重ねた政治家よりは、目先が変わった既成政党とは違う新興勢力に優先して投票する庶民の社会風土があるということです。

経営風土と宗教事情

長谷川 現在、日本維新の会が大阪府と大阪市の議会を独占しているのも庶民の社会風土を反映したもので、関東人の私が理解するのも難しい面がありますね。そうした社会風土は企業経営にも反映されていると思うのですが如何でしょう。

大塚 大阪の企業経営者を取材して気付いたことがあります。それは伺った会社の屋上には必ずと言ってもよいほど稲荷神(お稲荷様)が祭られていたことです。大阪だけでなく関西では、稲荷神が商売繁盛の神様として古くから信仰を集めているのですが、オフィス街の建物には軒並み稲荷神が祀られている風景を見たときにはビックリしました。取材でお話を伺った企業経営者も、出社すると必ず稲荷神に手を合わせて商売の繁盛を祈る方が多かったように思います。それに関連するのか良く分かりませんが、大阪に非常に多くの新興宗教が生まれているのも大阪の社会風土だと思いますね。

稲荷神社
JR大阪駅前第一ビル屋上の稲荷神社

長谷川 以前から大塚さんから大阪には沢山の新興宗教が活動しているという話を聞いていたので調べてみました。2023(令和5)年度の宗教統計調査では、都道府県別にみた神道、仏教、キリスト教などの既存宗教に属さない諸教の宗教団体が大阪には3,423団体もあって全国第一です。ちなみに2位は兵庫県2,196団体、3位は東京都1,881団体となっており、大阪の突出ぶりが分かります。新興宗教はこの諸教に含まれていると思われるので、この統計から大阪に新興宗教が多いという大塚さんの推測は統計で裏付けできると思います。

大塚 沢山の新興宗教が生まれた背景には大阪の社会風土があると考えるのが普通だね。ただ、宗教と地域社会の関係は非常に複雑で奥が深く、素人には分からないことが沢山あります。大阪に赴任して間もなくから大阪大学の名誉教授をされていた宮本又次先生に大阪の商人や社会についていろいろ教えていただきましたが、その中で宮本先生が大阪の庶民は昔から日蓮宗の信徒が多いと仰っていたことを思い出します。私がもう少し若くて体力があれば、大阪の社会風土と宗教の関係を取材していたでしょう。全国各地を歩き回った長谷川君は、大阪の社会風土をどう考えているの。

長谷川 私の経験からその土地の言葉は、地域の社会風土を反映していると思っています。大阪の方と会話していつも思うのは、関西言葉の中でも大阪言葉は歯切れが良く聞こえます。会話の相手からスパスパと断定的にお話しされると、大阪らしい商人文化の活気を感じますね。ただ、初対面の方とお話ししていると、私が品定めされているような印象を持つことがよくあります。都市の人間関係を研究している方のお話で、大阪人は東京人に比べて群れを好む傾向が強いとされていることを考えると、大阪人は会話を通じて相手が自分の仲間かどうかを見極めているのでしょう。その意味で大阪人は何処かの属さないと孤立感が強くなるのかも知れません。

大塚 ただでさえ企業のトップは孤独だと言いますが、大阪の企業はオーナー型のワンマン経営が当たり前で、表面にこやかな顔をしている経営者も内心は不安感が一杯なことを取材を通じて感じました。それだけに重要な経営判断を迫られると、彼らが神仏に支援を求めるのはごく自然な姿なのだと思います。稲荷神を身近に祀るだけでなく、新興宗教に救いを求める経営者がいても不思議ではありません。私が大阪に着任して間もなくの時期から取材を続けた松下幸之助が白龍大明神を守り神にしていたことは長谷川君にも話したね。その点、東京の企業は組織化が進んで経営者一人が全ての責任を背負うことはありません。彼らが神仏に祈るのは、正月の初詣や建物の棟上げ式くらいじゃないかな。

生きている商慣行

長谷川 大塚さんが専門にしている企業経営の分野で気付かれた大阪特有の取引慣行はありませんか。

大塚 東京と違う大阪の社会風土を表す言葉に、「五十日(ごとうび)」の習慣があります。五十日は、5と10の付く日に各種の代金を支払うという昔の商習慣で、その日になると売上代金を回収するため社員が取引先を駆けずり回りました。現在でも、多くの企業が給与や利用料金の支払いを五十日に設定しているのはその名残です。東京でも五十日払いの商慣習がありますが、大阪のように五十日になると道路が車で大渋滞することはありません。東京の企業は大阪企業に比べて現金決済の割合が低く、銀行預金の振替送金で処理してしまう企業が多かったからでしょう。私が赴任した当時、現金取引を重んじるインド商人が船場で沢山働いていたのも、五十日の習慣が根強く残っていた大阪人の社会風土と関係しているのではないかと考えています。

それから大阪の企業人は、今でも商売に関する処世訓を大事にしています。商売の処世訓で「始末、才覚、算用」という言葉は長谷川君も聞いたことがあるだろう。「始末」は、商い(商売)の始めと終わりがピタリと合うように帳尻を合わせるという意味で、余分な費用を抑えて利益を確保することに繋がります。「才覚」は、客が求める新しい商売を開発すること、また工夫と努力によって客を獲得して商売繁盛に繋げること、「算用」しっかりと採算を確保する経営計画や経営管理をしていくことです。言われてみると尤もなことばかりで、大阪人の社会風土がは結構合理的であることを表していると思います。

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商家の家訓

長谷川 そうした大阪の社会風土から生まれた処世訓が、大塚さんが興味を持たれた商家の家訓に繋がるわけですね。

大塚 商家の家訓は、長い歴史を潜り抜けてきた老舗の経営者達にとって経営判断に迷いが起きた時に意思決定の拠り所となっています。私は、宮本先生やお弟子の作道先生に教えていただきながら、住友家など豪商の家訓や石田梅岩の石門心学を研究しました。その過程で商家の家訓を収集したり、今では数少なくなってしまった石門心学を啓蒙する心学講舎で大阪で活動している心学明誠舎の運営に関りを持つようになりました。NHKで仕事をしていた時は、商家の歴史や家訓に関連する番組も作りましたね。

石門心学が誕生したのは、江戸時代を代表する元禄の華やかな時期が終焉し、商家の経営破綻だけでなく大名の取り潰しが発生するなど経済社会が混乱していた時期でした。石門心学に共感した商家の主は家の永続を願って家訓を制定して後代への戒めとしました。当時造られた家訓多くは、石門心学が重視した「正直、倹約、勤勉」を柱にしたものが多かったようです。その後、商人の中には自身の経験を踏まえた家訓を創る者も現れました。近江商人の「売り手よし、買い手よし、世間よし」という「三方良し」の考え方も石門心学の影響を受けていると言われます。

長谷川 沢山集めた家訓の中で大塚さんが一番気に入った家訓あるいは家法は何ですか。

大塚 私が一番気に入ったのは「我が住友の営業は、時勢の変遷、理財の得失を計り、弛張興廃することあるべしと雖も、苟も浮利に趨り、軽進すべからず」という住友家の家法です。この言葉は、石田梅岩の石門心学より100年近く前に、住友家の初代とされる住友政友(1585(天正13)年~1652(慶安5)年)が残した「文殊院旨意書((もんじゅいんしいがき))」を基盤として住友家が1891(明治24)年に策定した家法の中に書かれています。今でも住友グループの企業は、多くがホームページに歴史のページを設けてこの家法を自社の経営指針としていることを明らかにしています。

私が住友家の家法に惹きつけられるのは、事業が永続するために経営トップが果たすべき役割を端的に言い表しているように思うからです。私なりに言い直すと「どのような事業でも浮き沈みが必ずある。経営トップは時代に合った事業に取り組み、着実な利益を上げることで、目先のアブク銭に目を奪われた軽率な判断を下してはならない」ということでしょう。近年の内外情勢は、長く安定してきた日本の経済社会が崩れていくような気がして仕方ありません。この情況で経営を託されたトップの方々がどの様な経営判断をされるのか、地盤沈下が続いている大阪経済の先行きを知るためにも気になりますね。

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大塚さんには、このインタビュー記事に続いて家訓の活用例、大阪で出会った企業経営者あるいは親しく交流された吉本隆明、白崎英雄など文学者達との思い出をお聞きする予定でしたが、果たすことが出来ずに終わりました。それでもこれまで本欄でご紹介した数寄者の世界や加賀正太郎が力を注いだ蘭花譜などに関するインタビュー記事は、大塚さんの業績を偲ぶだけでなく、大阪の社会風土を知るうえで貴重な記録になったと思われます。ご協力いただいた大塚さんに改めて感謝するとともにご冥福をお祈りいたします。

長谷川清:全国地方銀行協会、松蔭大学経営文化学部教授を経て2018年4月から地域金融研究所主席研究員。研究テーマは地域産業、地域金融。「現場に行って、現物を見て、現実を知る」がモットー。和光市在住。

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