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長谷川清の地域探見(25)渋沢栄一と二人の師(その3)尾高惇忠(下)

時代が明治に移ると、惇忠は栄一がいる東京を離れた群馬県富岡や岩手県盛岡などにその足跡を残しています。惇忠が地方で着実な成果を上げることで、東京で活躍する栄一を支援しました。そうした惇忠の後半人生は、今でもいぶし銀の輝き放っています。

民部省に出仕

明治元(1868)年12月、栄一は欧州から帰国して血洗島に帰郷しても数日滞在しただけで、直ちに主君の徳川慶喜がいる静岡に向かいました。静岡で慶喜に帰朝報告すると、慶喜は栄一を勘定組頭として藩の経営管理を命じます。これに応えて栄一は、翌明治2(1869)年に商法会所(商社と銀行を兼ねた組織)を創設してその経営にまい進しました。しかし同年11月、政府から呼び出されてそのまま民部省の租税正(そぜいのかみ)に就任させられます。当初、栄一は政府の要請を断ったのですが、大隈重信の説得で嫌々受諾して民部省改正掛の係長に就任し、財政金融制度の構築や産業発展に大活躍することになります。

栄一が民部省租税正に就任した翌明治3(1870)年、惇忠も民部省に出仕しました。きっかけは、利根川から引いている農業用水の取水口を下流に変更しようとする政府の計画が公表され、それに反対する農民代表の一人に惇忠が就任したことでした。惇忠は民部省に提出する計画反対の建白書を書き、他の代表と一緒に民部省に出向いて計画反対の事情を説明しました。惇忠の説明を聴取したのが聴訟権正(後日、大審院長)の玉乃世履(たまのよふり)で、玉乃は惇忠の陳述ぶりや建白書の内容を評価、官吏に推挙したのでした。

官営富岡製糸場の創設を担当

これも運命の神の仕業でしょうか、その時、栄一は官営富岡製糸場の創設にも関わっていました。明治政府が官営の製糸場を建設することになったのは、日本の開国を機に大量に輸出された生糸が粗製乱造により国際的な評価を落としてしまい、名誉挽回のため西洋でも最新鋭の器械製糸場を作って品質の向上を図ろうとしたのが動機です。問題は政府官僚の大部分が武士階級で、柔剣道には熟達していたでしょうが、蚕や生糸など見たこともない連中です。製糸場の設置主任には元柳川藩士の中村祐興、元岩国藩士で惇忠を官吏に推挙した玉乃世履、元幕臣の杉浦譲も名を連ねましたが、その中で製糸についての土地勘を持っていたのは惇忠と栄一だけでした。でも栄一は他の仕事が忙しく、結局、実質的な製糸場の設置主任として活動したのは惇忠一人だけだったでしょう。

惇忠は製糸場建設と運営の顧問となったフランス人のポール・ブリューナ (Paul Brunat)と一緒に、長野県、埼玉県、群馬県に点在する建設候補地を巡りました。惇忠にとってブリューナは本格的な会話を交わした最初の西洋人かも知れませんが、両者の意思疎通は円滑だったようです。惇忠は身に付けていた素養でブリューナの意図を理解して意思疎通し、互いに信頼関係を築くことが出来たと私は想像します。視察が一巡すると両者は、工場建設に不可欠な広い土地、生糸の原料となる繭、製糸に必要な水が確保できた富岡を製糸場建設の適地として推薦しました。そして富岡が建設用地に定まると、惇忠は、用地買収のために攘夷意識が残る地域で地主を一人一人訪ねて説得し、全員の承諾を取り付けました。

フランスの技術を導入して設立された官営富岡製糸場は、「木骨煉瓦(れんが)造り」という日本には無かった建築様式で、当時の日本には資材がありません。このため惇忠は、尾高家の使用人夫婦の間に生まれた韮塚直次郎(にらづかなおじろう)に煉瓦作りを任せ、煉瓦を接着するためのモルタルは出入りの左官職人だった堀田鷲五郎・千代吉親子に考案させるなど尾高家の関係者を動員しました。

富岡製糸場東繭置所
富岡製糸場東繭置所(提供富岡市)

初代場長として女工の採用に尽力

明治5(1872)年に完成した官営富岡製糸場は、器械製糸工場として当時世界最大級を誇り、導入された器械は日本の気候にも配慮したもので、他の地域に建設された製糸工場にも導入されました。製糸場が完成すると、惇忠は初代場長に就任し、「至誠如神」の扁額を所長室に掲げて日々の仕事に全力を尽しました。

そうした惇忠があげた功績の中で知られているのは、女工の採用と育成です。最新鋭の官営富岡製糸場は工場で働く女工達は、後日開設されるであろう各地の器械製糸場で指導員として働くことが期待されていたことから、士族を中心にある程度の家庭教育を受けた子女を対象とました。しかし、そうした家庭の親は自分の娘を製糸場で働かせるなどと誰も思いません。中には、ブリューナが飲んでいた赤ワインが女性の生き血だと騒ぎ立てる向きもあって採用は難航しました。

困った惇忠は、自分の長女勇(ユウ)を下手計から呼び寄せて工女第一号とし、これが契機になって各地から女工が集まるようになったと言われます。さらに惇忠は女工が働く環境を整備して一般教養を柱にした教育も施しました。教育者惇忠の片鱗が窺われますね。その話が知られるようになると、富岡製糸場の評価も好転、娘を製糸場で働かせる親も増えていきました。

勇は、明治10(1877)年に退職し、栄一が頭取を務める第一国立銀行の専務永田甚七の養子永田清三郎と結婚しました。その長男永田甚之助は、栄一が創立に関与した武州銀行(本店旧浦和市)を経て、昭和18(1943)年に創立した埼玉銀行の初代頭取に就任しています。

製糸場の採算確保に苦心

女工採用の苦労を乗り越え製糸場の運営も軌道に乗ったように見えますが、実態は惇忠の苦労が続きました。一番の問題は製糸場の採算です。経費がかかりすぎて赤字が定着していたのです。一番の元凶は、官営富岡製糸場を日本に最先端の器械製糸場を立ち上げるために雇ったブリューナなど9人の外国人に対する報酬です。中でもブリューナの年俸は約9千円で、当時、一般的な日本人職工の年俸74円だったのに比べるとべら棒な高さです。また女工も集まるようになったのですが、手作業を習得できずに短期で退職した人も多く、生産効率が上がらない状況が続きました。

採算を改善しようと惇忠は、原料となる繭の調達価格を引き下げようとしました。方策の一つとして惇忠は、交配により開発された秋蚕(あきご)による安価な秋繭を購入しようと、秋蚕の飼育を農家に奨励しました。しかし、政府から秋蚕の生産が蚕種原紙規則および蚕種原紙売捌規則(ともに明治7(1874)年制定)に抵触しているとして、惇忠や秋蚕の生産に踏み切った農家が告訴されてしまいます。裁判は大審院まで進みましたが、明治8(1875)年に蚕糸業に関する規制法令が全廃されて裁判が取り消しされ、被告人は全員無罪が申し渡されました。

また翌明治 9(1876)年には、日本の繭が大豊作な一方で、西洋の繭が不作との情報を得て、惇忠は国内の繭を安価で大量に買い付け、値上がりを待つことで大きな利益を上げました。これにより富岡製糸場はそれまでの赤字を解消したのですが、惇忠が行った繭の買い付けに対し、政府から模範工場が行うべき取り引きではないと非難されてしまいます。

秋蚕のかかる告訴や繭の買い付けに対する非難は、いずれも製糸場の現場を知らない政府官僚による言い掛かりです。富岡製糸場は、日本の製糸業近代化のために開設したモデル工場ですから、当初の赤字操業は織り込んでいた筈です。それにも拘らず、政府から赤字操業に対する批判の声が上がったのは、府内部の藩閥争いや元徳川家の家臣だった惇忠に対する反感などが交錯した結果でしょう。

惇忠は誠意を尽くして説得ましたが、彼らは理解を示しません。多分、惇忠は栄一とも相談したのでしょう。惇忠は、ブリューナらのお雇い外国人が契約切れた明治9(1876)年を潮時に官営富岡製糸場の場長を辞任し、大蔵省(明治4(1871)年に民部省を吸収)も退官しました。

その後の富岡製糸場

官営富岡製糸場は、器械製糸の普及と技術者育成という所期の目標を達成したとして明治26(1893)年、三井家に払い下げられました。その後変遷があって昭和14(1939)年に片倉製糸に合併され、昭和62(1987)年3月に操業を停止するまで実に115年もの長きにわたって操業を続けました。

操業を停止した後も富岡製糸場の建物は大切に保管され、平成17(2005)年7月に敷地を含む全体が国指定史跡に、平成18(2006)年7月には主な建物が国指定重要文化財に指定されました。加えて平成26(2014)年6月には、世界遺産の指定を受け、同年12月には繰糸所、西置繭所、東置繭所の3棟が国宝となりました。あの世でこれを聞いた惇忠は、多分大喜びしたでしょうね。

東北で商工会議所創設に尽力

話を惇忠に戻します。惇忠が大蔵省を退官した前年の明治8(1875)年、栄一は大蔵省を退官して第一国立銀行の頭取に就任し、民間事業者の活動を積極的に支援していました。惇忠も栄一を手助けして、東京府瓦斯局に勤務した後、東京養育院の事務取締役、蚕種会議会頭などに就任しています。これらは何れも繋ぎであって惇忠にとって人生後半の仕事は、明治10(1877)年12月に第一国立銀行入りして取り組んだ15年に及ぶ東北地方の産業振興でした。

ことの発端は、同年に第一国立銀行が政府から小野組の破産で為替業者を失っていた岩手県に出店するようにとの要請を受け、栄一が盛岡支店の開設を決めたことです。問題は地域の事業者と円滑な関係を構築できる支配人で、栄一は惇忠を盛岡支店の支配人(支店長)として迎い入れました。私は栄一が人の話をよく聞き、その努力を後押しする惇忠の人柄を見込んのではないかと想像します。盛岡は、三井組とともに第一国立銀行を創設した小野組の本拠地で、銀行設立後に小野組が破綻したことに関連して人々の中には中央政府だけでなく同行に対しても良い印象を持っていない向きもあったのかも知れません。

惇忠も栄一の期待に応えて盛岡に赴任すると地域の実業家と積極的に交流しました。活動の場は、時の岩手県令だった島惟精(しま いせい)が栄一の東京商法会議所に倣って設立した盛岡商法会議所です。惇忠は会議所に設けられた若手実業家の勉強会である盛岡実業交話会を開いて、得意にしている古代中国の英雄物語や自分自身が経験した富岡製糸場開設の苦労話などを織り交ぜながら、栄一が推進している商工会議所運動を易しく語って語って参加者に喜ばれたと想像します。

実業交話会では、士族と商人が分け隔てなく親しく交流し、意見交換会が行われました。当時、こうした勉強会は大変珍しく、教育者としての惇忠の考え方が反映されているように思えます。さらに惇忠は、交話会に集まった実業家に呼びかけて北上川を利用した舟運事業を運営する北上廻漕会社の設立に尽力するなど盛岡経済の発展に貢献しました。

でも、肝心の銀行支配人としては大変苦労したようです。盛岡支店は、開設当初、税金の収納業務を専門に取り扱い、漸次一般の銀行業務を扱うことになっていました。しかし、詳しい事情は分からないのですが、第一国立銀行盛岡支店は明治27年(1894年)に閉鎖されています。惇忠が設立に尽力した第九十国立銀行も経営陣の対立から経営不振が続き、惇忠は対応に苦慮しています。

盛岡で 10 年過ごした後、明治20(1887)年に惇忠は第一国立銀行の仙台支店の支配人に異動しました。仙台には栄一が設立に深く関与した第七十七国立銀行があって、惇忠は持ち前の人柄を生かして仙台の経営者たちと昵懇となり、商工会議所の創設と若手実業家の育成に力を入れました。

明治25(1892)年、満62歳になった惇忠は第一銀行を退職して仙台から離れました。盛岡で10年間、仙台で5年間、計15年間を惇忠はどのような思いで過ごしたのでしょう。私は惇忠が東北の若い実業家たちに栄一の経営思想を伝播する活動に喜び感じていたと想像しています。惇忠の本性は教育者であり、若手実業家を育てる自分の役割に満足していたのではないでしょうか。

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東京深川で引退生活

そうした惇忠が引退生活を送ったのは、深谷市下手計の自宅ではなく、東京深川の福住町(現江東区永代2丁目)にあった渋沢家の別邸でした。そこには惇忠に対する栄一の敬意と感謝の念があったのではないかと私は想像しています。

この家で惇忠は、好きな筆を振るい、書籍を読む日々を送り、明治34(1901)年1月2日、静かに息を引き取りました。享年72歳でした。同月29日には惇忠が名付け親となった栄一の経営思想を研究する竜門社(現・渋沢栄一記念財団)主催の追悼会が開かれ、栄一を含め200名もの関係者が惇忠の死を悼みました。惇忠の長男勝五郎保志はすでに亡く、次男の次郎は親族の尾高幸五郎の養子になっていたため、家督は末娘コトの夫定四郎が婿養子となって継ぎました。

深谷市下手許の尾高家墓所には惇忠の院号である藍香院惇徳格知居士と記された墓碑があり、その側面に栄一が起草した長文の碑文が刻まれています。碑文は惇忠に対する栄一の思いを切々と語り、文末に記された次の言葉は胸を打ちます。

幼くして教えを受け、長じては出処を共にす。毎(つね)に事は余に就(つ)いて謀り、終始逆らうことなし。余を知る者居士に若(し)くはなく、而して居士を知る者また余に若(し)くはなし。

尾高家墓所の惇忠墓碑
尾高家墓所の惇忠墓碑

幕末・明治という大きな時代変化の中で生涯を送った惇忠ですが、教え子に栄一がいなければ田舎の名主が開いた寺子屋の先生として生涯を終え、名も現代に伝わっていなかったかも知れません。惇忠にとって教え子の栄一は、自分の能力をはるかに超え、日本の産業界を構築した自慢の傑物となりました。碑文にあるように、栄一は節目ごとに惇忠の意見を求めたようですが、惇忠は常に「栄治郎(栄一の幼名)が思うように」と答え、栄一の背中を押したのでしょう。

今回は触れることが出来ませんでしたが、徳川昭武の随員として訪問した欧州で見聞した金融経済に関する法制度、社会制度を瞬時にその本質を理解したのは30人ほどいた随員の中で唯一栄一だけでした。また種々の事業を通じて新たな成長分野を切り開いていった栄一の経営能力は、世界的にも傑出していました。そうした栄一にとって、惇忠から施された読書を通じて各種事象の因果関係を深く考える力を養うという教育は、栄一にとって何事にも代えられない価値を持っていたと私は考えています。

長谷川清:全国地方銀行協会、松蔭大学経営文化学部教授を経て2018年4月から地域金融研究所主席研究員。研究テーマは地域産業、地域金融。「現場に行って、現物を見て、現実を知る」がモットー。和光市在住。

長谷川清の地域探見(24)渋沢栄一と二人の師(その2)尾高惇忠(上)

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