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長谷川清の地域探見(24)渋沢栄一と二人の師(その2)尾高惇忠(上)

渋沢栄一の人生に影響を与えた二人目の師は、尾高惇忠(おだか あつただ/じんちゅう、以下・惇忠)です。惇忠は、文政13年7月27日(1830年9月13日)、岡部藩領の榛沢郡下手計村(はんざわぐん しもてばかむら、現在の埼玉県深谷市下手計)の名主尾高勝五郎と栄一の姉八重との間に生まれた「東の家」の嫡男で、栄一の父市郎右衛門にとって甥、栄一とって従兄という関係になります。惇忠は、日本社会が激動した若い時期に栄一と行動を共にし、成人して産業人として活躍した栄一を裏で支えたことから話題が豊富です。したがって本稿も、2回に分けて惇忠の生涯をご紹介することにしました。ただし手元の資料が少ないため、私の推測がたっぷり含まれていることをご了解ください。

尾高惇忠
尾高惇忠

惇忠の教授法

血洗島の豪農「中の家」に生まれた栄一は、父市郎右衛門から読み書きの基本を授けられた後、7歳頃から自宅から歩いて10分程の下手許村にある尾高惇忠(通称・新五郎、雅号・藍香)が主催する尾高塾に通うようになりました。惇忠は幼少時から学問に秀で、17歳頃には近郷の子弟たちに漢籍を教える尾高塾を主催していたのです。惇忠は塾と称していましたが、地域の人々は寺子屋との区別がつかず、栄一も後年の講演で自分は寺子屋で学んだと言っています。

尾高塾における惇忠の教授法は独特なもので、惇忠が読み方を教えた後は子弟が自分のペースで課題を何頁も読み進め、ポイントになるところで惇忠が読み方と大意を解説するという方式をとりました。惇忠に言わせると、この教授法が子供たちに読書力をつけさせ、子供が自ら疑問をもって考えるようになる一番の方法です。現代で似たような教育法がありますね。

栄一も惇忠の方針に従って史記、漢書、十八史略、天明史略、国史略、日本外史など色々な書物を読み進め、読書好きになって片時も本を手放さない生活を送るようになりました。栄一は尾高塾に15歳頃まで通い、知識人としての基礎教育をしっかり受けています。この基礎教育のお陰で、栄一は継続的な学習能力と各種事象の因果関係を深く考える力を養い、独自の世界観を持つようになります。

後年、栄一の講演録として出版された「論語と算盤(そろばん)」などはその典型でしょう。孔子の研究者からすると栄一の論語理解には異論もあるでしょうが、論語を切り口に語る栄一の人間理解は現代の我々が読んでも圧倒的な説得力をもっています。ネットの噂では、現在大リーグで活躍している大谷翔平が日本ハムに在籍していた時に当時の栗山監督から本書を渡され、それが契機になってその後も本書を愛読書としているようです。

尊王攘夷思想

栄一にとって惇忠は、学問の師であり、青淵という雅号の名付け親でもでもありました。惇忠は渋沢栄一の生家である「中の家」の裏手に水が湧き出る美しい淵があり、これになんで栄一の雅号を青淵としたと伝えられます。惇忠はこの雅号に、湧き水の清らかさと自然の力強さを込めたのではないでしょうか。

そうした美的感覚の鋭い惇忠が12歳になった時、父尾高勝五郎に連れられて水戸に行き、烈公と呼ばれた水戸藩藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき)の姿を遠目に見る機会がありました。尾高家は初代宗助の時代から尊王攘夷の気風があって、勝五郎は斉昭が伝統の雉狩りに見立てた侵略軍に対する演習を公開すると聞かされると息子を連れて水戸まで遠征したのです。演習で斉昭の凛とした姿を見た惇忠は、感銘を受けて水戸学を本格的に学び、天皇を尊び外敵を斥けようとする尊王攘夷思想を強めました。

当時の日本社会は、長年続いた徳川幕府による鎖国政策が綻び、なし崩し的に外国貿易が広がり、横浜や神戸に外国人居留地ができると、地方の商人は物資をそれまでの江戸ではなく居留地に直送して利益を上げるようになりました。居留地に直送された絹糸などの物資は外国商人によって輸出されます。

合わせ技のように、日本国内の金貨が外国人によって買い占められて海外に流出した一方で銀が流入して、銀貨の価値が低下、銀とリンクしていた銅銭の価値も下落しました。当時、日本国内の金と銀の交換比率が欧米に比べて金が高く、銀が安いことに目を付けた外国商人が、安く入手できたメキシコ銀貨を大量に持ち込み、日本で金貨に交換、金貨を海外で売却して大儲けしたのです。

被害を受けたのは、日常生活に銀貨や銅貨を使っていた庶民です。特に慶應年間は飢饉や情勢不安などでさまざまな物の値段が上昇し、庶民の暮らしは圧迫されていきました。米が高騰して食に困った者たちが、地域の豪商を攻撃する一揆が各地で起きています。開国したせいで生活が苦しくなったという考えが人々の間に広がり、意識の高い知識層や武士たちの尊王攘夷運動に火をつけました。

惇忠も共謀した攘夷計画

いつの現代でも若者は、既存の社会思想や権力構造を批判するものです。幕末に二十歳代となった惇忠に聞こえてくる尊王攘夷運動の情報は、惇忠の正義感に火をつけ自分が主催する尾高塾でその思いを語ることが多くなったのでしょう。惇忠が抱いた尊王攘夷思想は、周囲の若者たちに伝播し、行動に駆り立てました。惇忠のすぐ下の弟長七郎は留学先の江戸で各地から集まった志士と交流して人的ネットワークを構築、栄一も家業を理由に何度も江戸に行き来し、いざとなった時に備えて売上から現金を抜きとり、武器や武具を買い揃えました。

こうした情況の下で迎えた文久3(1863)年、栄一は従兄の惇忠と喜作と共謀して高崎城の兵器庫を乗っ取り、その勢いで横浜の外国人居住地を焼き討ちする攘夷行動を企てたのです。栄一が立案した計画は、いかにも血気にはやる青年が企てそうな無謀なものですが、地域で名を知れた栄一が呼びかけた効果は大きく、70名ほどの同志が集まりました。

ここで運命の神が動きます。計画を実行しようとした直前に既に江戸で尊王攘夷運動に加わり、世間の実情を知る惇忠の弟尾高長七郎が駆けつけたのです。長七郎は彼らに計画の無謀さ訴えて直ちに中止するよう強く訴えました。同志を集め、軍資金を調達していた栄一はこれに強硬に反対、長七郎との間で激論となりました。しかし具体的な反論材料を持たない栄一は長七郎の説得に負けてしまいます。そして軍資金の残りを手当として同志に分配し、決起隊を解散させてしました。

決起を中止したとはいえ、栄一らが同志を集めて高崎城を襲撃しようとしたことを知っていた地域の人々は少なくなく、いくら「中の家」の若旦那であったとしても騒ぎを起こそうとした栄一は人々から許されるわけでありません。当然、幕吏の眼も光っていたでしょう。このため栄一と喜作は地元を離れざるを得ず、江戸を経由して尊王攘夷運動の中心地であった京都に行きました。

栄一は京都、惇忠は地元

紆余曲折があって京都で栄一らは、一橋家の家臣平岡円四郎から説得されて徳川慶喜に仕えることになりました。その経緯はやや込み入っているのですが、つい先程まで幕府を世の中の敵と非難していた尊王攘夷派が、徳川家の家臣となり公武合体派に転換してしまったのです。栄一の臨機応変な対応は、事業家の資質を垣間見せています。そしてこの判断が、その後の栄一にとって新たな出発点になったことは皆さんご承知の通りです。

一方、惇忠は地元に残りました。父親を早く亡くした惇忠は、若くして「東の家」の当主であり、村の名主を務めていたからです。地元に戻った惇忠に対して岡部藩は、水戸天狗党との繋がりを疑って陣屋に幽閉するなどの措置を講じて惇忠も苦労しましたが、地元の人々から非難されることは無かったようです。これは私の勝手な想像ですが、惇忠は名主であるだけでなく、地域でも知られる知識人だったからで、人々の目から見ると惇忠が浮世離れした行動をとっても「先生だから仕方ない」と思われていたのでしょう。後日、栄一が訪欧している最中に起きた飯能戦争で惇忠は幕府側の振武軍に加わり、敗退して地元に逃げ込んだ際にも地元の人々は惇忠を非難していません。

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栄一にとって惇忠は大切な身内

栄一にとって惇忠から受けて影響は大きく、後日、「惇忠と出会わなければ自分は血洗島の百姓のままで終わり、今日の自分は存在しなかった」と述懐しています。そして生涯を通じて惇忠を「先生」と呼んで畏怖し、惇忠からもらった雅号「青淵」を生涯使い続けたのです。

そうした惇忠は、栄一にとって偉大な教師であると同時に大切な身内でもありました。惇忠の妹千代が栄一の最初の妻となり、栄一が慶応3(1867)年1月に渡欧する際は惇忠の弟平九郎を見立て養子にしたという濃厚な姻戚関係が形成されていたのです。しかも、徳川昭武の訪欧に随行する際、栄一の見立て養子となった平九郎は新政府に対峙する旧幕府側の振武軍に加わり、明治元(1868)年5月に飯能戦争で敗走して自刃しました。享年22(満20才)でした。(本誌では、2021年12月に「20歳で自刃、徳川家に殉じた渋沢平九郎 渋沢栄一の養子」を掲載しております)

越生町大字黒山にある渋沢平九郎自決の碑
越生町大字黒山にある渋沢平九郎自決の碑

新政府が発足した明治元(1868)年の11月に栄一は帰国し、翌12月に帰郷しました。家を出てから6年の歳月が流れていました。栄一は東京で出迎えた父市郎右衛門と再開を果たしていましたが、実家で家族と再会すると互いに万感の思いで涙を落としたことでしょう。当然、「東の家」も訪問して師の惇忠にも帰国の挨拶をし、互いの無事を喜んだものと思います。(次号に続く)

長谷川清:全国地方銀行協会、松蔭大学経営文化学部教授を経て2018年4月から地域金融研究所主席研究員。研究テーマは地域産業、地域金融。「現場に行って、現物を見て、現実を知る」がモットー。和光市在住。

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