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長谷川清の地域探見(19)数寄者研究者大塚融氏に聞く:加賀正太郎と蘭花譜(その5)

今回で数寄者研究家にお聞きする「加賀正太郎と蘭花譜」は、一区切りとなります。今回は、2005(平成17)年に取り組んだ蘭花譜の再摺りプロジェクトに参加された職人方の仕事振りについて大塚さんの思いをお聞きします。

 再摺りプロジェクトに参加した職人方

長谷川 再摺りプロジェクトは、正に数寄者研究家かつ職人研究家である大塚融の人脈が見事に生かされました。改めて再摺りに関わった職人方を紹介してください。

大塚 再摺りは昭和の蘭花譜で使った古い版木を再利用するため、版木を補修する「彫り足し」が必要でした。彫り足しの仕事は木版彫師でも長年の経験がものを言うため、大ベテランの松田俊蔵さんにお願いしました。

摺師については、最初、昭和の「蘭花譜」にならって東京と京都に手分けすることも考えたのですが、試し摺りの監修や絵の具の調達などを限られた時間の中で効率的に行う必要があることや、昭和の「蘭花譜」で仕事された名人摺師の上杉桂一郎のご長男上杉猛さんが京都で活躍されていることを考慮して全て京都で摺ることになりました。

ただ問題はその上杉猛さんです。上杉さんは京都でも名人中の名人の摺師ですが、版元の芸艸堂とはまったく付き合いがありません。木版画の業界では版元と摺師が一体で、版元に繋がった摺師が仕事をする仕組みになっているのです。

でも私は、上杉さんとの長いお付き合いを通じて難しい仕事ができるのは上杉さんしかいないと確信していました。そこで再摺りプロジェクトでは、既存の枠組みを取り払って一番難しい作品を上杉さんにお願いし、上羽徹、佐藤景三、宮村克己、竹中清八、米田蔵造、市村守、佐々木茂など京都で活躍している実力のある8人の摺師にご協力をお願いすることにしました。

再摺りに使う和紙は、浮世絵版画に最も適している福井県今立の手漉き越前奉書を使用することが絶対条件です。昭和の蘭花譜で紙を漉いた8代目岩野市兵衛の息子さんで人間国宝の9代目岩野市兵衛さんに特別の紙を漉いていただきました。9代目岩野市兵衛さんは、木版画の生命を損なわないように丁寧な「チリ取り」された紙を漉くことで定評がある方です。また全ての紙には、前回と同様、福井県今立の山口漉込加工所に透かしの型造りをお願いして「天王山 大山崎山荘」の透かしを漉き込みました。

9代目岩野市兵衛の仕事風景(大塚融氏提供)

校正摺りの監修は、原画の絵師だった故・池田瑞月のご子息の池田一路さんにご担当いただきました。池田一路さんは、少年時代に父親について上杉さんのお父さんが主催していた版画工房や戦前の大山崎山荘にも出かけられているので、昭和の蘭花譜が作られた当時の雰囲気をよくお分かりでした。

 再摺りプロジェクトの進行

長谷川 そうしたメンバーの再摺りプロジェクトはどの様に進められてのでしょう。

大塚 プロジェクトの期間は、2004(平成16)年春から翌2005(平成17)年春までの1年間でした。再摺りの作業は、最初に版木の状態を調べる「板調べ」から始まりました。発見された版木は、昭和の蘭花譜を造る段階で既に300回以上も馬連(バレン)が強く押し当てられています。その上、長年にわたり倉庫に他の版木と一緒に積み重なられていたため縮みや歪みが生じていました。松田さんは12版中9版について3枚から1枚合計17枚彫り足して再摺りする木版は見事に蘇りました。

岩野市兵衛さんの紙漉きは、「彫り足し」に併行して行われて紙漉にとって条件の良くない真夏前に終えました。岩野さんが漉いた奉書紙は全部で1,500枚程になりましたが、作業を効率的に進めるため、摺り上がったところから8人の摺師に廻して試し摺りをしてもらいました。試し摺りを池田一路さんから監修してもらい、芸艸堂、三浦印刷の校正を経て、2004(平成16)年の夏明けから摺師の方々が本摺りを行いました。

再摺りは版木の状態を考えて最初から100セットと決めていたので、それ程時間をかけずに翌年春には100セットが完成し、私が執筆した蘭花譜の解説文と併せて2005(平成17)年に三浦印刷から刊行されました。100セットは数か月のうちに完売しました。そして私たちが作った再摺り版は、好事家の間で「平成の蘭花譜」と呼ばれるようになりました。

平成の蘭花譜表紙(大塚融氏提供)

 再摺りに関わった職人方の声

長谷川 お話をお聞きする限り、再摺りプロジェクトは短期間のうちに大変スムースに進行したようですね。大塚さんが蓄えていた人間関係が見事な成果をあげたと言えるでしょう。では、再摺りプロジェクトに参加した職人方にとって、この仕事はどの様に受け止められたのですか。

大塚 今改めて振り返ると、再摺りプロジェクトに協力してくれた職人方は現在の木版画職人の中でもトップクラスの方々ばかりですが、この先二度とこのようなメンバーによる仕事は無いでしょう。職人の皆さん方にとっても思い出に残る仕事だったようです。

「彫り足し」をお願いした松田俊蔵さんは、「修復対象の版木を彫った菊田幸次郎の彫り板には刀(トウ)が鋭く一挙に流れるように入って、摺った絵の具が彫った溝に溜まらないように仕上げてありました。戦前の名彫師だった菊田幸次郎の彫り板を見ることが出来ただけでも、彫り師冥利に尽きる」と仰っていました。

摺師の方々が苦労したのは、原画がないため昭和の蘭花譜を見本にするほかなかったことです。昭和の蘭花譜は摺られて60年以上経っており、摺り上げた当時に比べると当然紙も絵の具も変色しています。8人の摺師は、原画を想像して色合わせや馬連使いをするか、前回の作品を摺り見本とするかで大変苦心されました。原画を想像して摺った結果、色使いが派手に見えると校正者の池田一路さんに指摘されて、摺り見本に合わせて作業し直した摺師もいました。

蘭花譜には木版画独特の「ボカシ」の技が駆使されています。「ボカシ」というのは、摺師が馬連(ばれん)の使い方を微妙に変えて版画絵に立体感を与える技で、一流の摺師にとってはそれ程難しい仕事ではありません。でも平成の再摺りに携わった摺師の一人は「これほど難しいボカシ仕事は初めてだった」と言っていました。この発言は、近年、難しいボカシ仕事を注文する版元や施主が少なくなって、摺師の技を鍛える機会が少ないことを物語っています。長く職人を取材してきた私の経験からすると、職人の技は難しい仕事を通じて向上していくもので、摺師の腕を落とさないためにも難しい仕事が必要です。

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 摺師への敬意

長谷川 以前から大塚さんは、木版画の摺師について話されることが多いのですが、それは何故ですか。

大塚 大阪に行ってから経済記者として職人仕事に対する関心が強くなっていた時期に蘭花譜の木版画を見て手書きの肉筆日本画だと見誤ったことは、前に話したけれど、その後も職人の取材を続けていくと日本の伝統木版画に携わる職人方の技がいかに素晴らしいかに気付かされました。とりわけ摺師の仕事に魅了されて東京と京都の摺師をずっと取材しています。

その中で、親しくさせていただいた有名な摺師の新味三郎さんから「名手が摺った木版画は手書きの日本画と間違うことが間々あって、特に名人が絹地に摺ると全く手書きと区別がつかなくなる」と聞かされました。新味さんも日本画の竹内栖鳳から「君は私の絵を絹に摺るな」と釘を刺され、それを誇りにしていましたね。

それだけ摺師の仕事は重要なのですが、日本では摺師の存在を無視する傾向があります。正太郎の養子・加賀行三さんは、米国のプリンストン大学の研究者から蘭花譜の彫師と摺師について問い合わせが来たけれど答えられなかったと言っていました。

名人と言われた職人がたくさんいた戦前は、旦那衆にとって出来映えさえよければ職人は「名も無き」存在でよかったのかも知れません。でも「職人が無名」であったために仕事が正当に評価されず、優れた職人が生活できなくなって伝統の技の消えていく今の状況に私は我慢できません。平成「蘭花譜」に摺師の名前を記録することにしたのは、仕事をしてくれた8人の職人方への敬意だけでなく、摺師の仕事がこの先も続くことを祈念する気持ちも込めています。

 上杉猛さんの引退

長谷川 蘭花譜の再摺りで摺師の中核を担われた上杉猛さんが引退されたことを大塚さんは大変残念がっていましたね。

大塚 今でもその気持ちに変わりありません。上杉さんは、蘭花譜の再摺りを最後に摺師の廃業を宣言されました。上杉さん言わせると、摺師が一番いい仕事ができるのは60歳位までで、それ以降は細かい線を見る視力が衰えてくるし、どうしても手に震えが出てくるとのことです。廃業宣言の前から上杉さんは「いい仕事ができるうちに、しかも最高にいい仕事をさせてもらったところで辞めたい」と言っていて、実にあっさり引退してしまいました。上杉さんが仰った「最高にいい仕事」に、蘭花譜の再摺りが当たってしまったのは因縁のようなものを感じますね。

上杉さんが主催していた上杉版画工房は、南禅寺山門近くの閑静な場所にありました。上杉さんがその工房でただ一人端然と馬聯に命を込めて平成の蘭花譜で再摺りするカトレヤ・クロソ・オオヤマザキの版木に向かっている姿が未だに忘れることが出来ません。上杉さんのお人柄を表す折目正しい立ち居振舞と京ことば、摺師としての流麗な馬連や刷毛の使い方に、職人仕事の神域に触れる粛然とした思いがしたものです。

蘭花譜の試し摺りを前に談笑する上杉猛氏と大塚融氏

上杉家は祖父の代から有名な摺師です。お爺さんは大岩徳蔵さん、お父さんの上杉佳一郎そしてご本人の三代は皆さん名人摺師として評価されました。私は蘭花譜の再摺りを通じて京都の最高の摺師が消えるその瞬間に立ち会ったわけです。その意味で、私は運がいい男だと思います。

 数寄者加賀正太郎

長谷川 数寄者研究家の大塚さんが長く取材されてきた「加賀正太郎と蘭花譜」についてお聞きしました。このインタビューの締めくくりとして、改めて加賀正太郎という数寄者が残した蘭花譜が持っている今日的な意義は何かをお聞きします。

大塚 そんな難しいことを聞くなよ。どう答えて良いのか分からないけれど、一つ言えることは加賀正太郎という数寄者が自分の美意識をしっかり認識していたことだね。その美意識を大山崎山荘の築造、蘭の新種作出反映させて具体的な作品にしています。蘭花譜は加賀正太郎が交配した蘭を写した板版画集で、隅から隅まで彼の美意識が詰まった美術作品です。

数寄者の多くは古美術や気に入った美術家の作品を買い集め、あるいは芸道を学んで発表会を開くなど、既にあるものの姿かたちを変えることはありません。加賀正太郎は数寄者であると同時に美術家でもあったと思います。1954(昭和29)年に正太郎が亡くなって70年程になりますが、資産家としての加賀正太郎を知る人はほとんどなく、多くの方は加賀正太郎を蘭花譜の製作者として記憶されているのではないでしょうか。

 5年ほど前、加賀正太郎が蘭栽培を始める切っ掛けになった英国の王立植物園(キューガーデン)から米国の地震学者スティーブ・カービー氏が執筆した蘭花譜の図録(RANKAFU~蘭板版画集)を出版、併せて園内のギャラリーで蘭花譜の展覧会を半年間開催しました。私も図録の共著者ということになってましたので、ロンドンのキューガーデンで開かれた図録のサイン会に出席しましたが、英国の方々が蘭花譜を非常に高く評価されていることを肌身に感じました。

欧米の蘭栽培者やボタニカルアート愛好者の間には、以前から蘭花譜を知っている方も多いようですね。この経験からすると、この先、加賀正太郎の名が蘭花譜と共に世界に広がる可能性もあると思っています。

長谷川 長時間にわたりお話をいただき有難うございました。今回のインタビュー記事を契機に蘭花譜がもっと知られるようになると良いですね。来年も大塚さんには、長年の取材活動を通じてお会いになった経営者や文化人の思い出話をお聞きしたいと思いますので、よろしくお願いします。

長谷川清:全国地方銀行協会、松蔭大学経営文化学部教授を経て2018年4月から地域金融研究所主席研究員。研究テーマは地域産業、地域金融。「現場に行って、現物を見て、現実を知る」がモットー。和光市在住。

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