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長谷川清の地域探見(18)再評価・新河岸川

私は東上沿線の和光市に住み始めて40年近くになりますが、新河岸川は隣を流れる大河川の荒川に押されてあまり意識することなしに過ごしてきました。でもある時、外環自動車道とその側道が荒川を越える幸魂大橋(さきたまおおはし)を車で通過している際、走行車線の左側に映る新河岸川が気になりました。川筋が真直ぐで「運河」みたいだ!これを切っ掛けに新河岸川を調べ始めたところ、私にとって興味深いことが次々に明らかになってきました。東上沿線の住民にとってはお馴染みの新河岸川ですが、今回は私の目線で新河岸川の新しい姿を見つけてみようと思います。

幸魂大橋から眺めた新河岸川
幸魂大橋から眺めた新河岸川

新河岸川の歴史

東上沿線物語をお読みの方は即刻ご存知のことでしょうが、新河岸川は武蔵野台地と入間川・荒川の間を流れる荒川水系の一級河川で、流路の延長距離は34.6kmとされています。新河岸川の起点は川越市上野田町にあって終点の東京都北区志茂で荒川と合流した後、隅田川と名称を変えて東京湾に注いでいます。

新河岸川に関するいろいろな資料を確認すると、新河岸川という名称は寛永15(1638 )年に発生した川越で起きた大火の被災から復興するため、城下町を囲むように流れて舟運に利用されていた河川に作られた河岸(かし)に由来するとされています。それまでは、本流の荒川を意識して内川と呼ばれていたようです。その後、江戸から明治にかけての時代、新河岸川の舟運は川越周辺の農産物を江戸の市街地まで運ぶ物資の運搬システムとして武蔵野地域にとって重要な役割を果たし、沿岸の各所に設けられた河岸には船問屋や商家が集まって賑わいを見せていました。

当時、新河岸川は現在の和光市新倉あたりで荒川に注いでいました。当時の新河岸川は水量が少なく、舟運に必要な水位を確保するために敢えて蛇行させて水位を高くしていたとも言われていますが、新河岸川の流域は洪水がたびたび発生して流域の人々を悩ましていました。

埼玉県が行った荒川流域に関する調査によると、当時の新河岸川が洪水を繰り返していた原因は二つあったとされています。一つは新河岸川幾つかの支流からの流水が大雨のたびに大量の水が流れ込んでいたことでした。要因の二つ目は、新河岸川が武蔵野台地の際にある低地のため、荒川の上流で大雨が降ると水位が上昇して新河岸川に流れ込んでしまうことでした。

 新河岸川の開削

明治時代まで関東平野を流れる河川は、荒川に限らず多くが氾濫を繰り返していました。その中で1907(明治40)年、1910(明治43)年と続いて関東平野を襲った大洪水を契機に明治政府は、関東平野を流れる二つの大河である利根川と荒川の改修計画を策定しました。うち荒川の改修計画は、荒川を上流部と下流部に分け、下流部には岩淵水門から分派する約21kmの放水路を開削して隅田川の流量を減らし、東京下町の洪水被害を抑制、分流して水量が少なくなった旧荒川本流に新河岸川を延伸・合流させて隅田川とする工事でした。

この工事は1911(明治44)年から開始され、完成したのは1923(大正12)年でした。荒川の分岐となる岩淵水門の設計と施工を指揮したのがパナマ運河の建造にも関わった青山士(あおやまあきら)です。新河岸川の開削は、荒川の分流工事にある程度の目途がついた1922(大正7)年から開始され、荒川との合流点から川上に向って荒川本流に併行するように進められ、埼玉県下の工事が終了したのは1930(昭和5)年でした。

全体的に新河岸川を掘り下げ、かつ川幅を広くして流れをスムースにし、土手を整備して洪水対策を構築しました。その過程で現在の朝霞市下内間木で荒川に合流していた流れを新たに開削した流路に切り替え、隅田川に繋げる流路変更が行われたのです。

 新河岸川の運河構想

 現在、都内区間を流れる新河岸川は、一部に旧荒川の流路を活用しているものの、ほとんどが新規に開削されましたが、東京都が2018(平成30)年に公表した「新河岸川及び白子川河川整備計画(東京都管理区間)」によると、当初、この部分は人工運河として掘削されたようです。でも運河として開削されたにもかかわらず、水深が浅い部分があって大型船舶が運航できないため運河には使用されず今日に至っています。

もっとも、隅田川から新河岸川に変わって間もなくの所にある板橋区の小豆沢河岸までは、東京都公園協会が運営する水上バスが年に数回のクルーズ船を運営しており、新河岸川が運河として開削されたことが偲ばれます。新河岸川の運河利用構想については、さらに事実関係を調査しなければいけませんが、私が初めて新河岸川を見た際に「運河みたいだ」と思ったのは的外れではなかったことになります。

埼玉県部分を流れていた旧新河岸川は大きな改修工事が施され、「九十九曲がり」と呼ばれるほど湾曲していた川筋は新しくなって延長距離も9㎞も短縮され、両岸には頑丈な土手が築かれました。工事が完了した時、地域の人々は新河岸川の変貌ぶりにビックリしたでしょうね。関係者の間では新河岸川にかかる一連の改修工事を「昭和の大改修」と呼んでいます。

しかし埼玉県下を流れる新河岸川が低地を流れる河川であることに変化はありません。昭和の大改修が終了しても、新河岸川の流域は大雨による洪水に見舞われることがままあって、国は戦後も補完的な工事が継続しました。1986(昭和61)年に川越市の渋井水門で新河岸川と分流して三本木橋(東大久保)でビン沼川に合流する新河岸川放水路、2002(平成14)年にビン沼調整池、2008(平成20)年に朝霞調整池などはその代表です。

こうして誕生した新生新河岸川は、荒川の改修工事により取り残された旧荒川の流れを取り込んでいるため一部に蛇行の痕跡が残されていますが、流路の全体は直線部分が多く、土手の形状から人工的に造られた河川であることが誰でも分かるでしょう。新河岸川には不老川、江川、柳瀬川、黒目川、白子川などの支流の流れがあって、上流から下流まで豊かな水量が整然と流れる特有の景色を生み出し、所々にある調整池は我々に新たな自然環境を提供しています。

 新河岸川の始点と終点

新河岸川の改修工事が始まる4年ほど前の大正3(1914)年に東上鉄道(大正9(1920)年に同社が東武鉄道と合併して東武東上線)が開業しました。東上線の開業当時、始発駅は池袋で終着駅は現在の川越市駅と霞ヶ関駅の中程にあった田面沢駅で、誕生当時の東武東上線はほぼ全線が新河岸川に並行して走る鉄道だったわけですね。

川越市上野田町にある新河岸川の起点は、東上線川越市駅を下車して徒歩7~8分程の所にある新河岸川を跨ぐ八幡橋を左折した先(川越市野田町1丁目)にありました。新河岸川の起点には埼玉県が建てた石碑があり、石碑から先は古い時代に入間川が乱流していた名残りとされる赤間川です。

新河岸川の起点(上から石碑に向っているのが新河岸川、石碑から左下の流れが赤間川)

一方、新河岸川の終点は東京都北区志茂(しも)にある新荒川緑地の先端にある荒川下流河川事務所が目印です。同事務所のすぐ傍にある新岩淵水門に行くと荒川分流と新河岸川が囲むように合流して隅田川になるのがよく見えます。私もこの取材で初めて新岩淵水門を拝見しましたが、荒川のダイナミックな眺めが展望できます。荒川下流河川事務所に併設されている荒川知水資料館には、荒川に関連する基礎的な情報を知ることができ、私が訪れた時には社会見学でしょうか、沢山の小学生が集まって黄色い声を上げていました。

新河岸川と荒川分流の合流点

 汚染が進行した新河岸川

昭和の大改修により新河岸川が整備されたことは各種の資料や書籍に記述されていますが、今のところなぜ荒川本流に併行して新たに新河岸川をわざわざ開削したのか、その理由を明確に記述したものを目にしていません。その中で埼玉県が1987(昭和62)年に刊行した荒川総合調査報告書によると「新河岸川の開削は治水を主目的にした」とする記述があることから、荒川本流の負担を軽減させるために新河岸川を開削されたのではないかと私は想像しています。

新河岸川には、不老川、九十川、柳瀬川、黒目川、白子川など支流が合流しており、従来通りに新河岸川をそのまま荒川に流し込むと荒川に負担がかかり過ぎると判断されたのではないでしょうか。これはあくまで私の素人判断で、当然、ご専門の方々からはご異論があろうと思います。是非お考えをお寄せください。

開削された新河岸川の川筋には、東武東上線沿線の開通もあって沢山の人々が居住し、各種の工場も立地するようになって都市化が進行しました。その結果、戦後の高度成長期には生活排水が新河岸川やその支流に流れ込んで新河岸川が汚濁し、東京の下町を流れる下流の隅田川には工場排水の流入もあって汚染がより深刻になりました。

 この事態は、期せずして荒川と新河岸川の社会的役割を明確にしました。私が住む和光市を含め、新河岸川流域の自治体が提供している上水道は、荒川水系、利根川水系などから引き入れた源水をさいたま市にある大久保浄水場から提供される県営水道の水と地元で採取される地下水を混合・提供している向きが多いようで、新河岸川を流れる水は使われていません。

つまり、荒川は上水道の水源として、新河岸川は地域住民の生活排水が流れ込む河川として、それぞれの役割を担うことになったわけです。当時は新河岸川に限らず、全国の都市を流れる河川の多くが汚染問題で社会問題となり、その浄化が課題となったことをご記憶の方も多いと思います。

 行政と住民の協力により浄化が進む新河岸川

これに対して国や全国の自治体は、大都市の下水道整備を進め、工場排水の規制も強化するなど河川の浄化に本腰を入れました。新河岸川については、1980年代前半の時期に汚染度日本一とされた支流の不老川の浄化を図るため、国土交通省が1994(平成6)年から水環境改善緊急行動計画(清流ルネッサンス21)の対象としたことを契機に、埼玉県や地域の自治体が下水施設の拡充に本腰を入れ、かつ浄化施設の新設などの浄化策に取り組みました。

これにより新河岸川流域に設けられた埼玉県下水道局の新河岸川上流水循環センター(川越市)、同新河岸川水循環センター(和光市)、東京都下水道局の新河岸水再生センター(板橋区)は、規模も大きく毎日大量の下水を浄化して新河岸川に流し込む重要な役割を担っています。また新河岸川には、秋ヶ瀬取水堰から取水した水が隅田川の水質浄化用水として流入しています。この水は荒川の水であると共に利根大堰から取水された利根川の水でもあります。

新河岸川の浄化に向けた施設の整備に併行して新河岸川沿いに住む方々の努力を見落とすことが出来ません。新河岸川に注ぐ不老川、柳瀬川、黒目川、白子川は、地域に暮らす方々にとって里川でもあり、それぞれの流域に里川を大切にする住民の活動が活発に行われています。

こうした行政と住民の方々との協力により新河岸川の水質は、確実に改善され、1970年代には水の汚濁状況を示す指標として使われている生物化学的酸素要求量(BOD)が国の環境基準を大きく上回る情況でしたが、1980年代以降は大きく低下して、近年は極めて低い水準まで低下しています。

新河岸川・笹目橋におけるBOD推移

(資料)埼玉県「公共用水域及び地下水の水質測定結果」より作成

埼玉県の調査によると、新河岸川にはコイ、ギンブナ、マダカなどが生息しているようです。また黒目川などの支流には清流を好むアユの生息も確認されています。

 1930(昭和5)年に現在の新河岸川が完成してから90年以上の月日が経ち、当初は人工的で風情に乏しかった新河岸川の風景も時間の経過に伴う「落ち着き」が感じられるようになりました。新河岸川も荒川との合流点に近づくと両岸がコンクリート造りとなって風景は無機的になってしまいますが、埼玉県下では雑草で覆われた土手が長く続いて独特な「味わい」を醸し出しています。埼玉県も各種のプロジェクトに取り組んで新河岸川の魅力発信に努めています。

本稿を執筆するためにはかなり時間をかけて各所を取材しましたが、新河岸川はその発足から今日まで人々の力で作り上げた人口の河川です。新河岸川が作り出した新しい自然と風景をどう育てていくのか、沿岸にすむ我々の課題です。

長谷川清:全国地方銀行協会、松蔭大学経営文化学部教授を経て2018年4月から地域金融研究所主席研究員。研究テーマは地域産業、地域金融。「現場に行って、現物を見て、現実を知る」がモットー。和光市在住。

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