今回は滋賀県の近江八幡から車で一時間ほどの所にある東近江市の五個荘(ごかしょう)の金堂(こんどう)町をご紹介します。ご案内いただいたのは、地域の振興活動に尽力されている千賀伸一さんです。
五個荘はどこ?
五個荘と言われて直ぐに何処にあるのかを思い浮かべる方は、それほど多くないと思います。実は私もその一人でしたので偉そうなことは言えません。
五個荘は近江八幡市の東側、湖東平野にある地域で、商業の歴史を研究されている方々の間では近江八幡や日野と並んで近江商人(湖東商人)を輩出した地域として有名です。2005(平成17)年1月まで五個荘は一つの自治体(五個荘町)でしたが、同年2月以降は平成の大合併により東近江市の一部になっています。
千賀さんが運転する車は、近江八幡の旧市街から出発し、安土城址を垣間見た後、五個荘に向かいます。車は田園が広がる湖東平野を疾走し、トンネルを抜けると忽然と街並みが現れ、地域の中心となっている五個荘金堂町(以下・金堂町)に到着しました。近江八幡市からの移動時間は30分程でしょうか。首都圏から鉄道を使って金堂町に行くには、新幹線米原駅でJR琵琶湖線か近江鉄道本線に乗り換えます。JR琵琶湖線を利用する場合は「能登川駅」で下車して八日市駅行近江鉄道バスの「ぷらざ三方よし前」から徒歩数分、近江鉄道を利用する場合は「五箇荘駅」で下車して徒歩30分と、金堂町は必ずしも交通の便に恵まれた地域ではありません。
五個荘出身の湖東商人
「五個荘」という地域名は、平安時代後期に大きな荘園が五つあったことに由来するとの説があり、「五箇荘」と表記されることもあります。近江鉄道の五箇荘駅はその例です。
室町時代、五個荘は六角氏が守護大名として支配していましたが、織田信長により排除され、豊臣秀吉に引継がれました。江戸時代になると大部分を彦根藩が支配しましたが、金堂町については大和郡山藩が陣屋を置いて影響力を行使しました。
その昔、五個荘の農民は貧しい生活を強いられましたが、江戸中期に彦根藩が商業活動の自由化を進めると、五個荘を含めた湖東地区からも多くの農民が行商に従事するようになりました。湖東商人の誕生です。彼らが扱った商品は、琵琶湖周辺で作られていた麻布などの繊維製品が主なもので、その活動は中山道沿いの地域から始まり、後に北海道から四国・九州の各地に及んだと言われます。
五個荘の商人たちも、地元に強い愛着を持ちながら行商に精を出しました。その一人が京都市で繊維総合商社を営む外与(とのよ)株式会社の創業者外村家五代目の与左衛門(照敬)です。五代目外村与左衛門は1700(元禄13)年に「布屋」の商号で麻布の卸行商を始め、九代目与左衛門(基信)に至って1822(文政5)年に京都、1836(天保7)年大阪にも出店して業績を急拡大させました。
時代が江戸から明治に移る頃には、宗兵衛家、宇兵衛家、市兵衛家などの分家や、多くの五個荘出身が京阪神や東京に進出して、繊維製品の流通だけでなく金融、製造などの関連分野でも活躍しました。また朝鮮半島や中国大陸に進出した向きも登場して多くの事業を展開しました。こうした彼らを商人と呼ぶのは適切ではありません。彼らは立派な事業家に脱皮し、成果を挙げたのです。
明治から昭和初期にかけの時期が彼らの全盛期で、この時期を中心に事業に成功した五個荘出身の事業家は、多くが金堂町に立派な本宅(商人屋敷)を作り、妻子を住まわせました。これは私の推測ですが、五個荘の中核である金堂町に事業家が本宅を建てたのは、①もともと五個荘は農村で住民同士の結び付きが強く、仕事で外に出ても本宅は地元に作って人間関係を維持する傾向が強かったこと、②有力者が暮らしていた金堂町に屋敷を構えるのは事業に成功者の証しであったこと等が重なり合ったのではなでしょうか。
金堂町の街並み
江戸時代、金堂町は大和郡山藩の金堂陣屋を中心に寺社が周囲に配置されて集落が整備され、江戸末期から明治・大正期に多くの商人屋敷が建築されました。幸い金堂町は、これまで大きな地震や火災の被害に見舞われておらず、住民の努力もあって、現在でも多くの歴史遺産が残されています。
東近江市が行った調査(平成23年3月東近江市報告書)では、金堂町にある伝統的建造物は198棟、門塀、水路などの同工作物は105件を数え、世帯数231、人口599人(2022(令和4)年末現在、東近江市統計データ)という比較的小規模な集落にしては歴史遺産が目立ちます。次の図は東近江市が作成した金堂町にある伝統的建物の配置図で、赤色で示された伝統的建物が地区全体に広がっていることがよく分かります。
航空写真で金堂町を眺めると、町の周囲を綺麗に耕作した畑が囲み、町内には広い敷地に緑豊かな庭園をもつ商人屋敷が其処かしこ観察できます。また、町内の通りは十字型に交差せず、多くが緩やかに屈曲して敢えて見通しを遮っていることが分かります。実際に町内を歩くと通りは狭く、進行するにつれて塀や生垣、土蔵などが次々に現れてきます。目障りになる商業看板は見当たらず、初めて金堂町を訪れた私は一瞬、異郷に連れ込まれたような感覚に陥りました。
比較的広い通りには鈴鹿山脈の伏流水を利用した水路が走り、水路には鯉が泳いでいます。商人屋敷は黒茶の舟板塀で囲まれ、所どころに蔵の白壁が配されて町並みは上質なモノトーン絵画を見るようで、懐の深い近江の地域文化を感じさせます。インターネットで見る市街写真ではこの感覚が分かりません。ご興味を持たれた方は、ぜひ現地に足を運んでください。
今回の金堂町訪問で千賀さんが最初にご案内されたのが大城神社でした。境内にある神社の案内板を見ると、大城神社は日本最初の女性天皇とされる推古天皇の御代に建立した金堂を平安時代の1170(嘉応2)年に現在地に遷宮したもので、金堂町の鎮守様となっています。
鎮守様と言っても大城神社はその辺にあるような簡素なものではありません。太い木々に囲まれた神社の境内には、大きな石灯篭が幾つも並び、三対もの狛犬に守られている本殿、立派な拝殿、絵馬殿、神饌殿などが配置され、金堂町の商人屋敷に住む人々がいかに豊かで、社寺に対する支援を惜しまなかったかが想像できます。
重要文化財となった外村家住宅
商人屋敷と社寺が甍を並べる金堂町の街並みは、1998(平成10)年に国の重要伝統的建造物群保存地区として選定され、2015(平成27)年には「琵琶湖とその水辺景観」の構成文化財として日本遺産にも認定されています。
五個荘に限らず、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された地域では、有識者により長く保存すべきとされた建物が重要文化財に指定されることが珍しくありません。金堂町でも浄土真宗大谷派の弘誓寺(ぐぜいじ)本堂が2007(平成19)年に重要文化財の指定を受けていますが、昨年2023(令和4)年10月、文化審議会が京都で呉服卸業を営む外市(とのいち)株式會社が所有する金堂町の外村家住宅を重要文化財(建築物)に指定するよう答申しました。外村家住宅と弘誓寺は、通り(寺前・鯉通り)を挟んだご近所同士です。
文部科学大臣は、今後、文化審議会の答申を受けて外村住宅を重要文化財として官報に告示しますが、これを機会に金堂町にある他の商人屋敷の歴史的な評価も一段と高まることは確かでしょう。その影響は金堂町にとどまらず、五個荘地域の観光振興にも貢献するものと思われます。
すでに五個荘はテレビの旅番組でも取り上げられ、ドラマの舞台にもなっており、近年は県外からの観光客が目立つようになりました。観光客のお目当ては、一般公開されている商人屋敷の見学です。金堂町には小説家外村繁の生家(外村繫邸)と戦前の朝鮮半島で複数の百貨店を経営し「百貨店王」と呼ばれた三中井一族の中江準五郎邸があります。
<外村繁邸>
外村繁(とのむらしげる、本名・外村茂)は、昭和10年代から30年代にかけて活躍した小説家で、「草筏」が第1回芥川賞の候補となりました(受賞は石川達三「蒼氓」)。公開されている屋敷は外村繁の生家で、少年期を過ごしました。屋敷は豪商として知られた外村宇兵衛の三代目が明治時代に建築し、宇兵衛の娘・みわと婿養子である吉太郎に譲られたものです。蔵は外村繁の文学館になっています。
<中江準五郎邸>
中江家はもともと五個荘で呉服商を営んでいましたが、明治時代に朝鮮半島一帯から満州・中国大陸に20数店舗の三中井百貨店を展開し、最盛期には日本国内の三菱を上回る売上を上げ、「百貨店王」と呼ばれるまでになりました。しかし、太平洋戦争の終戦によって海外での資産を全て失ってしまい、三中井百貨店も消失しました。現在公開されている屋敷は、三中井百貨店の創業者である中江家4兄弟の末弟である準五郎の本宅です。1933(昭和8)年に建築されこの屋敷は、近代近江商人の本宅の典型とも言われ、庭園や白壁の蔵などにその繁栄ぶりが窺われます。とりわけ琵琶湖を模した池泉回遊式の庭は見事です。
五個荘金堂町の商人屋敷は、いずれも行政と地域の方々が一体になって管理・保存に努めており、建物の内外が綺麗に清掃され、庭も手入れが行き届いています。先に触れたように、五個荘地区は交通の利便性に欠けているため沢山の観光客がドッと訪れることはないと思われます。それだけに金堂町は、気忙しく、ゆとりのない生活を強いられている私たちにとって貴重な存在です。金堂町をご案内いただいた千賀さんに改めて感謝します。
東上沿線にお住いの皆様も一度機会をお作りになり、金堂町を訪れては如何でしょう。良い思い出を作ることができますよ。
長谷川清:全国地方銀行協会、松蔭大学経営文化学部教授を経て2018年4月から地域金融研究所主席研究員。研究テーマは地域産業、地域金融。「現場に行って、現物を見て、現実を知る」がモットー。和光市在住。