吉見町の吉見百穴近く、松山城跡の西側斜面に、「岩窟ホテル」と呼ばれた洞窟がある(現在は立ち入れない)。近所に住む高橋峰吉さんという人とその息子が、明治から昭和にかけて、人の手で掘りぬいた地下宮殿である。岸壁に一人立ち向かう峰吉さんの姿を見た人たちが「岩窟掘ってる」とうわさし、「岩窟ホテル」と呼ばれるようになったという。
高橋峰吉さん (岩窟売店資料)
高橋峰吉さんは安政5年(1858)生まれ。明治37年、46歳の時に、岸壁をノミ一本で掘り始めた。土地は所有地で(現在は町有地)、当初は凝灰岩の石材採掘が目的であったようだ。その後は、「宮殿」建設が目的化し、館内には棚や花瓶など調度品も岩をくり抜いて製作。21年間、掘り続けた。
峰吉さんが掘っている間にも洞窟は公開された。「岩窟ホテル・高荘館」と名づけられ(いつからこの名が使われたか不明)、大正の初めころは見学者も増え、整理券が発行され、その様子はロンドンタイムズで報じられたという。
峰吉さんの死後、一時作業は途絶えたが、養子の泰次さんが昭和20年頃から作業を再開、40年頃まで2階部分の掘削や内部の拡張などを続けた。昭和50年代までは多くの見学者が押しかけたという。
その後は、掘削はやめ、土地は町が買収。岸壁が崩落したこともあり、現在は閉鎖され、金網越しに「ホテル」の外観がうかがえるだけだ。
現在の岩窟ホテル
岩窟ホテルの前には、峰吉さんの子孫の方が経営する「岩窟売店」(食堂)が開いており、関連資料も展示されている。
岩窟売店
岩窟ホテルの話は、「一生懸命やれば何でもできる」例として小学校の道徳の本に載っていたこともある。筆者も、小学生時代、遠足で岩窟ホテルを訪れ、感銘を受けました。
(本記事は、吉見町資料、岩窟売店の方のお話などにより作成しました。取材2020年7月)
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