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新河岸川舟運の拠点 福岡河岸周辺を歩く 回漕問屋福田屋は記念館に 家康ゆかりの権現山古墳

ふじみ野市の新河岸川沿いにあった旧福岡河岸は、江戸から明治にかけて新河岸川舟運を担う有力な船着き場であった。当時の回漕問屋の建物が残り、福田屋は福岡河岸記念館として公開されている。近くには、徳川家康ゆかりの権現山古墳、蓮光寺など、史跡が多く、趣ある散歩コースになっている。上福岡歴史民俗資料館館長(兼大井郷土資料館館長、福岡河岸記念館館長)の原口雅樹さんにご説明いただいた。

武蔵野の農産物を江戸に運ぶ

-河岸とは。

原口 明治時代まで物資の流通は、基本的に水運で担われ、この辺では新河岸川舟運が盛んでした。新河岸川舟運は、江戸時代に、寛永15年(1638)の川越大火で焼けた仙波東照宮の再建の資材を運んだのが始まりのようです。江戸の中期以降になりますと、武蔵野が開拓され、そこからの農作物を江戸に運び、江戸からは耕作に必要な肥料を運ぶという流通ができていました。

舟運で、荷物の積み下ろしをする場所が河岸であり、そこで荷扱いを行う商人が、回漕問屋とか船問屋と言われる業者で、江戸期においては許可制でした。

-現在の上福岡にあった河岸が福岡河岸ということですか。

原口 福岡河岸は、養老橋のたもとにあり、それなりの規模で、有力な河岸でした。対岸の現在の川越市側には、福岡河岸より成立は古いですが、古市場河岸という河岸がありました。

福岡河岸跡

対岸の古市場河岸跡

-福岡河岸はいつ頃まで続いていたのですか。

原口 基本的には、武蔵野の新田開発による農作物を江戸に運ぶという役割で明治時代までは隆盛を誇っていました。しかし、その後は、新たな物流手段として鉄道が敷かれ、舟運がすたれていきます。東上鉄道(現在の東武東上線)の開業は大正3年(1914)です。

福田屋の当主星野仙蔵、東上鉄道を誘致

-福岡河岸にあった回漕問屋は今は。

原口 福岡河岸には、福田屋、江戸屋、吉野屋という3軒の船問屋さんがありました。現在の福岡河岸記念館は、福田屋さんの建物です。

-東上線を誘致した星野仙蔵は福田屋の当主だったのですか。

原口 福田屋のご当主は代々星野仙蔵を名乗っており、東上鉄道の誘致に尽力したのは10代目です。10代目星野仙蔵さんは、結局家業ののれんを下すわけにはいかないけれど、舟運の先行きについてははっきりとした見通しがついていたと思います。政治家でもあり、鉄道を考えたのだと思います。10代目は47歳で若くして亡くなっており、以降家業は衰えていきます。

-他の2軒の問屋はどうなりましたか。

原口 江戸屋さんは、建物は残っていますが、最後のご当主が亡くなって家が絶えてしまいました。吉野屋さんは、文庫蔵だけ残っています。

吉野屋文庫蔵

-古市場河岸の方は。

原口 船問屋であった橋本屋さんのご子孫はいますが、当時をしのぶような建物はありません。

筑波山を一望できる福田屋の離れ

-福田屋であった河岸記念館は公開されているわけですが、見どころは。

福岡河岸記念館 (福田屋)

原口 当時の船問屋の建物で、1階が商家としての機能、2階部分が住居で、今でいう店舗兼用住宅です。3階建ての離れは、眺望を重視しており、10代目の星野仙蔵さんが、ある種の迎賓館のような部屋として建てたようです。明治33年の建築で、保存のため、日を限って公開しています。

-3軒の船問屋は確かに立地がよいですね。

原口 武蔵野台地が終わって、低地に入るギリギリの斜面です。福田屋の離れは、川の方から見ると、5階建てに相当するような高さになります。筑波山が一望できます。

3世紀後半の権現山古墳群

-権現山古墳とは。

原口 3世紀後半の初期の古墳群で、県の史跡に指定されています。古墳というとさきたま古墳群のような大きな規模をイメージされるかもしれませんが、これはそれほど大きくなく、近辺の首長のような方のお墓であろうと推測されます。複数の古墳があり、一番大きいものは前方後方墳です。

周辺には、現在は住宅や工場になっていますが、別の古墳群があり、支配者の方の墓が移動していったものと考えられます。最近そこから人物埴輪が発見されました。

-「権現山」という名は徳川家康の関係ですか。

原口 古墳のある丘陵に、家康が鷹狩りに来て休んだと伝承があるようです。当時、鷹狩りはこの近辺で盛んに行われていました。

-権現山から見て新河岸川の対岸にあるお寺は。

原口 曹洞宗の古刹である蓮光寺です。
蓮光寺記事はこちら

蓮光寺

-権現山お近くに御嶽山という小山があったのですか。

原口 御嶽信仰にもとづく神社があったのですが、私有地だったので相続の関係などから最近崩されました。山自体は古墳ではなかったのですが、隣接して古墳がありました。権現山より少し後の時代のものです。

-新河岸川の姿は昔と同じなのでしょうか。

原口 昔はもっと蛇行していました。舟運に使う船は長さ20メートル前後、米が100~200俵積める船です。エンジンはないので、流れを利用して進むわけですが、流れが急ではコントロールできませんので、蛇行させ、川の幅も必要でした。そのため、川が決壊しやすく、明治になり、河川改修で、川の流れをまっすぐにしたのです。

現在の新河岸川

上福岡の発展の基礎となった火工廠

-火工廠とは。

原口 火工廠(陸軍造兵廠川越製造所)は、戦時中の弾薬工場です。現在の上福岡駅から中央公園、上野台団地(コンフォール上野台)、福岡中学校、ふじみ野市役所、大日本印刷工場にいたる約25万平方メートルの広大な敷地。昭和12年から終戦の昭和20年まで操業していました。軍用工場ができ、そこで働く人たちが集まったことで町が形成され、戦争が終わった後は、団地とか工場になり、旧上福岡市の発展の基礎を作ったともいえます。

-何か遺構が残っているのですか。

原口 防爆壁が郵便局の駐車場わきに残っていたのですが、3年前に取り壊されました。今は工場敷地内に当時の壁が残っているのではないかとみられますが、確認されていません。それ以外の遺構はなくなっています。

原口館長

(取材2017年3月)

 

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