東武東上線の終点、寄居駅で降りて南へ約10分歩くと、荒川の美しい淀みである名勝「玉淀(たまよど)」がある。今年(2022年)10月初め、14年ぶりに再訪、濃い緑色の静かな淀みをしばらく眺めていた。対岸の断崖上には、戦国時代に築かれた鉢形(はちがた)城跡がある。財団法人日本城郭協会は「日本の100名城」の1つに選定している。
名勝の玉淀、雄大な眺め
玉淀の「玉」は美しいという意味で、埼玉県の玉でもある。「淀」は水のよどんだところである。「埼玉県にある、美しい玉のようによどんだ地」という意味を込めて命名された(玉淀河原の案内板による)。荒川が秩父山地から平野部に流れ出る際によどみができる。昭和10年に県の名勝に指定された。文豪の田山花袋は紀行文「秩父の山裾」の中で、「東京付近でこれほど雄大な眺めを持った峡谷は他にない」と激賞している。
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玉淀と鉢形城跡の断崖
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正喜橋から玉淀を望む
天然の要害、鉢形城
荒川に架かる正喜橋を渡ると、右手に鉢形城跡が広がる。戦国時代の代表的な城郭跡として国指定史跡になっている。面積は24万平方メートルに及ぶ。
最大の特徴は、荒川とそれに合流する深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれ、天然の要害となっていたことだろう。戦国時代、交通の要衝にあり、北条(北條)氏の北関東支配の拠点だった。なお、鎌倉時代の執権、北条氏と区別して後北条氏とも呼ばれる。
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鉢形城跡の曲輪配置図(正喜橋近くの掲示)
豊臣勢との攻防戦と開城
しかし、1590年(天正18年)の秀吉の小田原攻めの際に、前田利家らの豊臣勢の大軍に包囲されてしまう。その兵力は5万人とも伝えられる。これに対し、守る北条勢はわずか3500人ながら、1カ月余りも攻防を続けた。その上で、城主の北条氏邦(うじくに)は、城兵の助命を条件に城を明け渡した。
寄居北條まつり、多くの武者隊
毎年5月、当時の攻防戦を再現した「寄居北條まつり」が玉淀河原で開かれてきた。2020年と21年はコロナ禍で中止になったが、22年は10月9日に規模を縮小して開かれた。10月初めに玉淀を訪れた際に開催準備が進んでいることを知り、当日、見物に出かけた。
会場には甲冑をまとった住民や寄居町に進出している企業などによる数多くの武者隊が出場した。大砲の音が響き、火煙に包まれる中、攻防戦が繰り広げられた。寄居町に工場のあるホンダや、埼玉銀行時代からの営業基盤を持つ埼玉りそな銀行の旗も目に入った。規模を縮小しているとはいえ、なかなかの迫力だ。アナウンスでは、城主の氏邦が、籠城した兵や領民の生命を守ることを優先して開城し、平和が訪れたことを讃えていた。
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「寄居北條まつり」での攻防戦(玉淀河原で)
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「寄居北條まつり」の武者隊、後方に対岸の断崖が見える
花袋の漢詩碑、印象的な実篤の書
この城には天守閣はなく、堀や土塁で区切られた曲輪(くるわ、郭とも書く)が連なる構造である。本丸にあたる「本曲輪」の中の「御殿曲輪」と伝わる場所に田山花袋の漢詩碑がある。武者小路実篤の書で、鮮やかに刻まれた独特の書が印象的だ。
「襟帯山河好 雄視関八州 古城跡空在 一水尚東流」
辞書をひくと、襟帯は山河に囲まれた要害、雄視は威勢を張って他に対することである。大意は次のようなものだろう。天然の要害を囲む山河は好(うつく)しく、その威勢は関東一円ににらみをきかした。古城の跡には何もないが、そばには一筋の川が、今も静かに東に流れている――。しばし、花袋が表現した情趣に浸る。
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伝御殿曲輪、正面の樹林の先は荒川右岸の断崖
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田山花袋の漢詩碑
曲輪の間に大規模な堀
城跡は、1997年から2001年までの発掘調査のあと、鉢形城公園として整備された。広さは24万平方メートルに及ぶ。歩くと、規模の大きさがよく感じられる。本曲輪から西に歩くと、二の曲輪、そして三の曲輪がある。発掘調査によって、二の曲輪と三の曲輪の間には大規模な堀があることが分かった。堀と土塁の間には、敵が攻め込んだときに守備につく空間も確保していたという。
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二の曲輪の土塁と三の曲輪との間の堀の跡
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価格:1,188円 |
池や庭園の跡、偲ばれる栄華
三の曲輪には、出入り口にあたる虎口があり、6段の石段の上に門が復元されている。門をくぐると、氏邦の重臣、秩父孫次郎が守ったと伝えられる「秩父曲輪」(ちちぶくるわ)が広がる。三の曲輪の中の高台で、四阿(あずまや、寄棟の建物)から、池の周りにあったという庭園跡や石積み土塁を見渡した。四阿、池、石積み土塁とも発掘でその存在が分かり、復元されたものだが、当時の栄華が偲ばれる。
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三の曲輪の虎口と門(復元)
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伝秩父曲輪の池と石済み土塁(復元)
長い外曲輪、秘境のような深作川
10月初めに訪れたときは、三の曲輪の虎口から出て、近くを走るJR八高線の線路をかすめ、東南方向に歩いた。すると、鉢形城歴史館の前に出た。映像で鉢形城の歴史などを紹介している町立施設だが、すでに夕暮れ時で閉館していた。外曲輪(そとくるわ)跡の遊歩道から、歴史館の裏の低地に降りると、深沢川が底地を流れている。そこに架かる小橋を渡り、崖を登ると、二の曲輪に通じる。ところで、寄居町のホームページによると、深沢川には多くの深淵があり、大丸釜、小丸釜、船釜などと呼ばれてきた。四十八釜と総称される。一つ一つに伝説があり、「秘境のような自然の渓谷美」を形成しているという。
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外曲輪跡の遊歩道
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歴史館裏手を流れる深沢川と小橋
寄居町のメーンストリートと玉淀駅
この日は、歴史館の裏の深沢川で折り返し、外曲輪の東側の住宅地を通って正喜橋に戻り、寄居駅まで歩いた。寄居駅近くを東西に走る国道が寄居町のメーンストリートで、商店や金融機関が並んでいる。「寄居北條まつり」の見物で訪れた帰りに、この通りを東方向に歩いてみた。地方の街で見かけがちなシャッター通り化は免れているようだ。突き当りにある東上線玉淀駅で上り電車に乗った。東上線の寄居~小川町間は単線で、玉淀駅はこぢんまりとした単式ホームである。開設は昭和9年で、隣の終点駅である寄居駅とは約600メートルしか離れていない。駅名はもちろん名勝の玉淀にちなんでいる。
<筆者のプロフィール>永家一孝(ながや・かずたか):志木市在住の元日本経済新聞記者。商業や消費動向、観光、マーケティング、広告などの分野が専門で、現在、フリーランスのジャーナリスト・リサーチャー。1952年生まれ。周防洋(すおう・よう)はペンネーム。