今年(2022年)4月、東武東上線武蔵嵐山(むさしらんざん)駅で下車、嵐山渓谷を再訪した。源頼朝に仕えた坂東武者として名高い畠山重忠の居住地と伝えられる菅谷館跡にも立ち寄った。いずれも嵐山町(らんざんまち)の代表的な観光地となっているところだ。
槻川橋
まず、槻川橋(つきかわはし)から、渓谷中心部のある上流側を見渡した。駅の南西約2㎞の地点だ。手前に河原が広がり、両岸に樹林が連なる景色は穏やかで心地よい。日比谷公園などの設計で知られる林学者の本多静六が1928年(昭和3年)秋に訪れたときに、ここからの眺めが京都の嵐山によく似ていると感嘆、「武蔵嵐山」と名付けたという。武蔵国(むさしのくに)の嵐山という意味で、当初は「むさしあらしやま」と呼んだようだ。それが新聞などで知られ、観光客が殺到した。
景勝地としての名声から、東武鉄道は1935年(昭和10年)に東上線菅谷駅(菅谷は地名)を武蔵嵐山駅に改称した。町名も、菅谷村が1967年(昭和42年)に町制を施行する際に嵐山と命名された。
塩沢冠水橋
槻川橋下から広がる河原と隣接地は、嵐山町観光協会が運営するバーベキュー場になっている。河原の端を通って渓谷へと歩いた。飛び石を渡って対岸の遊歩道をしばらく歩くと、塩沢冠水橋(塩沢は集落名)と展望台の分岐点がある。増水時には水に覆われることもある冠水橋だが、至近の上流側には岩が幾重にも重なってできる岩畳(いわだたみ)と勢いのよい清流が目をひく。
塩山を望む
分岐点に戻り、高台にある展望台へ進んだ。屋根付きの風通しのよい2層の木造である。樹木が生い茂っているため、崖下の川は垣間見えるだけだったが、渓谷沿いに広がる樹林や、奥にこんもりとした塩山(標高164.9m)が望める。地図には正山と表記されていることもあるが、地元では塩山と書いて「しょうやま」と呼んでいる。
展望台の周辺一帯は、県民の寄付による基金をもとに、埼玉県と嵐山町が1998年に取得し、「みどりのトラスト」保全地として整備している(添付した保全地案内図にある「見晴台」は展望台のこと)。ここから南へ約500mは細長い半島状の地形で、細原と呼ばれてきた。「半島」を縁取るように槻川が流れる。西側が上流部で、南端で180度向きを変えて北へ蛇行、展望台あたりで東へ向きを変える。
与謝野晶子の歌碑
「半島」の大半が樹林地で、南端に向かって遊歩道が伸びている。新緑の中を歩くのは実に爽快で、ヤマツツジの淡い朱色の花も目を楽しませてくれる。やがて、情熱的な歌人として知られる与謝野晶子の歌碑に出合う。帽子をやや斜めにかぶった晶子の顔のスケッチを付し、「槻の川 赤柄の傘をさす松の 立ち竝びたる 山のしののめ」と刻まれている(竝は並の旧字)。
1939年(昭和14年)に晶子は、展望台のある場所に建っていた料亭旅館「松月楼」に宿泊し、「比企の渓」と題した短歌29首を詠んだ。歌碑はそのなかの一首を採っている。しののめ(東雲)は、東の空がわずかに明るくなる頃を指すが、「赤柄の傘をさす松」とは、当時、周辺に多かったアカマツ林のことである。
嵐山町観光協会のボランティアガイドをしている、渓谷近くに住む内田章さん(75)の話によると、1980年代に松くい虫の被害が広がるまでは、渓谷周辺はアカマツが多かった。麓から見える塩山の東側はアカマツで赤く染まって見え、「赤っぽ山」と呼ばれていたという。
昭和初期の嵐山渓谷
ところで、冠水橋と展望台との分岐点近くに、「武蔵の小京都 嵐山渓谷へようこそ」という題字が目をひく案内版がある。そこに掲げている「昭和初期の嵐山渓谷」の写真が印象に残った。「半島」の中ほどの東側から北を向いて撮った風景だが、「半島」から突き出す岩畳と対岸を結ぶ簡素な橋の上に、日傘を指した和服姿の2人の婦人がにこやかな表情を浮かべて立っている。対岸の渓流沿いにアカマツ林が続き、奥の崖の上には、晶子も部屋から眺めたであろう松月楼が写っている。背後には大平山(おおひらやま、標高178m)などの山々のなだらかな稜線も――。昭和レトロの優雅な雰囲気が伝わってくる。
菅谷館跡
一方、畠山重忠が居住していたと伝えられる菅谷館跡は、国指定史跡で、槻川橋の東北約800mの場所にある。槻川が合流した都幾川(ときがわ)に接している。川は自然の要害である。菅谷館跡は約13万平方メートルと広い。残念ながら重忠の館自体の遺構はない。現存するのは戦国時代の城跡だが、当時の館があった区画である郭(くるわ)がいくつもあり、それを囲む空堀と土塁が樹林のなかに保全されており、静寂に包まれている。
重忠は、忠義を重んじる勇猛な坂東武者の代表的な人物の一人で、武士の鑑(かがみ)と讃えられてきた。一の谷の戦いで、愛馬「三日月」を背負って坂を下ったという源平盛衰記にある話は有名だ。頼朝の亡き後、北条氏の謀略で謀反の疑いをかけられ、鎌倉へ向う途中の二俣川(横浜市)で幕府の大軍の攻撃を受け、42歳で非業の死を遂げたのだが、嵐山町ではその慰霊とともに、偉業を偲ぶ行事が続けられてきた。かつて、畑和(はた・やわら)は埼玉県知事時代に作詞した重忠節で「菅谷館は苔むせど 坂東武者のかがみぞと おもかげ照らす峯の月」と謳っている。
菅谷館跡には、コンクリート造りの重忠像がある。烏帽子をかぶった直垂(ひたたり)・袴姿で、鎌倉の空を見守るかのように立っている。静御前の舞を銅拍子で伴奏した重忠らしい姿と言えよう。1929年(昭和4年)に、重忠を激賞した、東京に住む漢学者、小柳通義(こやなぎ・みちよし)が、地元有志の協力を得て建立したものだ。
嵐山史跡の博物館
菅谷館跡の一角には、県立嵐山史跡の博物館があり、比企地方の中世の城郭跡の出土品などを展示している。坂東武者の活躍した時代に思いをはせながら、見学した。今年放映されているNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、中川大志さんが演じる、溌剌とした重忠が何度も登場する。謀略で非業の死を遂げたため13人の合議制の一員とはならなかったが、駅に併設されている観光協会の案内所「嵐山町ステーションプラザ嵐なび」で尋ねたところ、大河ドラマを機に菅谷館跡を全国から訪ねてくる人が増えている。
嵐山渓谷は紅葉でも知られるが、嵐山町には、四季を通じて魅力のある名所旧跡や自然体験スポットが多い。2019年には新名所として槻川橋の南西側にラベンダー園「千年の苑」が開園した。今年は6月10日から「らんざんラベンダー祭り」が開かれる(主催は嵐山町観光協会、同月26日まで)。「千年の苑」のネーミングには、重忠などが平穏な世の中を望んでいたに違いないとの思いから、千年の時を経て、その願いにふさわしい美しい地を創るという意味が込められている。
<筆者のプロフィール>永家一孝(ながや・かずたか):志木市在住の元日本経済新聞記者。商業や消費動向、観光、マーケティング、広告などの分野が専門で、現在、フリーランスのジャーナリスト・リサーチャー。1952年生まれ。周防洋(すおう・よう)はペンネーム。