渋沢栄一は県北東部の深谷の出身だが、東武東上線沿線地域ともいろいろ縁があり事業の舞台になっていたことは前に書いた(「渋沢栄一と東上沿線」)。その後の取材で、さらに渋沢の関係している事業が出てきた。一つは、川越市の霞ヶ関カンツリー倶楽部近くに建つ児童養護施設、埼玉育児院だ。財的的苦境にあった孤児院を、地域の地主で名望家の発智庄平の紹介で渋沢が支援した。もう一つは、羽生から三峰口まで埼玉北部を横断する秩父鉄道だ。やはり資金難にあった上武鉄道を諸井恒平(つねへい)の仲介で渋沢が支援。この時渋沢の提案で諸井は秩父・武甲山の石灰岩を使ったセメント製造に乗り出し、石灰岩輸送が鉄道事業の柱になる。これらの例から言えるのは、第一に渋沢は依頼を受けた事業を何でも引き受けているわけではない。社会的意義を吟味し選んでいる。第二に、単にお金を出すのではなく、秩父セメントの例のように創意工夫、知恵を与えている。第三に、引き受けた事業は後々めんどうを見るということ。明治7年から関わりずっと支え続けた養育院(現健康長寿医療センター)がその例だ。すべての例を調べたわけではないが、渋沢は関わった多数の企業それぞれに強い思い入れを持って全力で相対したのだと想像される。
渋沢栄一と東上沿線 その2
