今回は和光市の熊野神社が主人公です。東上沿線には幾つかの熊野神社が祀られており、沿線に暮らす方々にとっても身近な神社です。その中で和光市の白子熊野神社は、古くから地域の方々から氏神様として親しまれ、新参者の私も正月の初詣で家内安全を祈願し、散歩の折に参拝して東上沿線物語への原稿が少しでも上手く書けますようにとお願いする神社です。武蔵野台地の一角に開かれた白子熊野神社の境内は、社殿を囲む木々の緑と調和して首都圏にありながら祀られている神々が日本の豊かな自然と一体であることを感じさせます。

白子熊野神社の歴史
まずは神社の歴史を紹介しましょう。本殿脇に掲示されている由緒書に「発祥は不明とされているが、社伝によるとおよそ一千年前といわれている」と記されています。これではアバウト過ぎるので和光市の図書館で和光市史に目を通してみると、白子熊野神社は平安時代の天長7年(830年)に開山した天台系寺院の清龍寺の境内に建てられた熊野権現が基になっていた旨が書かれています。
その熊野権現が建てられた時期ですが、平安時代末期に熊野三山を参詣する熊野詣が大流行したことから、箱根の山を越えて関東にも阿弥陀信仰の風が吹き込んだ平安時代末期から鎌倉時代にかけての時期であったのではないか私は想像します。そうするとザっと数えて九百年程前の時代になり、由来書の「およそ一千年前」という記述はそれ程間違っていないということになります。
そうした古い時代に建てられた熊野権現は、江戸時代になると川越街道の宿場として栄えた白子宿の住民にとって別当寺(べっとうじ)の青龍寺ともども身近な寺社になっていたのでしょう。その流れから白子宿の人々は村の北部に鎮守の氷川神社があったにもかかわらず、ある時期から熊野権現を鎮守として崇めるようになったのです。
これも私の想像ですが、青龍寺の境内に熊野権現があった数百年の間に醸し出された神秘的な雰囲気が人々の心を惹きつけ、鎮守を変更させた誘因として作用したのではないかと思います。その境内は武蔵台地の谷合を整備した土地で、下を流れる白子側をは挟んで昇る朝日が自社の建物を照らし、周囲の木々と相まってその神秘性をより高めていたのでしょう。
境内の南側には川越街道が通って、季節を通じて多くの人々が行きかい、白子宿だけでなく川越街道沿いの住人にとっても青龍寺と熊野権現は気になる寺社だったのではないでしょうか。交通の便が良かった青龍寺は、江戸時代に人気があった富士講や大山講などの拠点にもなりました。現在の熊野神社の境内には富士塚が造成され、大山講が主催した薪能の記念碑が残されているのはその名残りです。
しかし時代が江戸から明治に移ると、新たな為政者となった人々の中には日本古来の神道を尊ぶあまり、奈良時代以降に外国から入ってきた仏教思想を退けて廃仏毀釈運動を進めた人々がいました。それまでは仏教寺院が境内に神社の開設し、僧侶が神主となって神社で神々に祈祷するなどの神仏習合が日常の姿でした。
しかし、明治政府が明治元(1868)年3月に廃仏毀釈運動に基づく神仏判然令を公布すると、全国の神社は寺院から独立して多くの僧侶は神官に変身したのです。白子宿の青龍寺も神仏判然令に逆らうことが出来ず、熊野権現を神社にすることになりましたが、その際にかつての鎮守だった氷川神社を合祀し、明治5(1872)年に現在の熊野神社として再出発させたのでした。なお、熊野権現の別当寺だった青龍寺は、昭和初期に運営法人が変わって青龍寺不動院となり、現在は熊野神社の川越街道側の斜面に小さな参拝所が設けられています。
祀られている神々
長い歴史を持つ白子熊野神社に祀られている神々は、伊弉冉尊(いざなぎのみこと)、健御名方命(たけみなかたのみこと)、速須佐男命(はやすさおのみこと)、速玉男命(はやたまのをみこと)、事解男命(ことさかのをみこと)、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)の6柱です。念のため各神様をごく簡単に紹介しておきましょう。
- 伊弉冉尊(いざなぎのみこと):妻の伊弉諾尊(いざなぎのみこと)との間に日本国土を形づくる多数の子を儲け、生命の祖神として崇められています。
- 健御名方命(たけみなかたのみこと):大国主命(おおくにぬしのみこと)の子で、神様諏訪大社の祭神です。
- 速須佐男命(はやすさおのみこと):ヤマタノオロチを退治した武勇の神として人気がある神様です。
- 速玉男命(はやたまのをみこと):伊弉諾尊が黄泉から帰る際に誓いをたて唾を吐いた時に生まれた神で、厄祓いの神様として知られています。
- 事解男命(ことさかのをみこと):伊弉諾尊と伊弉冉尊が黄泉平坂で永遠の別れをされたところで生まれた神で、縁切りの神様として知られています。
- 倉稲魂命(うかのみたまのみこと):伊弉諾尊、伊弉冉尊の子で五穀・食物を司る神とされ、多くの稲荷神社が祭神としています。
ここで念のため、東上沿線にある川越、城山、今成、黒山、腰越、白子など6社の熊野神社について祀られている神様を調べてみると面白いことに気付きました。それは白子以外の熊野神社は祭神が3柱から4柱で、白子熊野神社の6柱は他に比べて多いということです。6柱のうち伊弉冉尊、速玉男命、事解男命は他の熊野神社でも祀られているのですが、速須佐男命、倉稲魂命、倉稲魂命が祀られているもは白子熊野神社だけでした。
これはどういう事なのでしょう。ここでも私なりの想像を巡らすと、明治初期に熊野権現を廃し、かつ氷川神社を合祀して白子熊野神社を開設するに当たって、関係者の方々が白子熊野神社の魅力を増そうとしたのではないでしょうか。熊野権現の時代は他の熊野神社同様、祭神は伊弉冉尊、速玉男命、事解男命の3柱でしたが、新たにできる白子熊野神社は諏訪大社の際神である健御名方命、有名な武勇の神様である速須佐男命、稲荷神社の際神である倉稲魂命など3柱を加えてパワーアップしたのです。これは私の当て推量なので大いに間違っている可能性があります。皆様のご意見をお寄せください。
熊野三山に繋がる空気感
昨年6月、私は和歌山県の熊野本宮大社、熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)、熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)の熊野三山を参拝してきました。そう書くと私が如何にも十全な下準備をした上で原稿を書いたという印象を持たれた方もいると思いますが、実は旅行社の格安バスツアーに参加して一泊二日で熊野三山と高野山をぐるっと回ってきただけですからご安心ください。それでも各神社が紀伊半島の大部分を占める山岳地帯と太平洋に接した狭い海岸地域が育んだ自然と密接に繋がり、人々から大切にされてきたことを実感できました。
紀伊山地は古くから自然崇拝の聖地です。熊野三山は神道、仏教、修験道の霊場であり、参詣者を導いた熊野古道が走って自然と人間の営みが一つになった歴史文化を生み出しました。熊野三山の中でも山部深い紀伊山地の一番奥に建てられた熊野本宮大社は、豊かな緑に覆われた山々に囲まれ、本殿に続く長い参道の両脇に生い茂る杉木立は悠久の歴史を感じさせます。
私は参道を上りながら、ふと和光市の白子熊野神社の参道を歩いているような感覚に襲われました。白子熊野神社のそれはとても小規模・簡素なもので、熊野本宮大社の石段に比べると恐れ多いのですが、熊野本宮大社の石段に流れている空気感と共通する何かがあるのでしょう。
その空気感は両社が同じ神々を祀っていることが源泉かもしれませんが、それほど信心深くない私は両社に共通する自然環境が生み出したものと見ています。両者に共通する自然環境は、熊野本宮大社が紀伊山地の山奥、白子熊野神社は白子川が削り取った武蔵野台地の谷間とそれぞれ湿度が高い場所に立地し、植生は違いますが両社とも豊かな緑に囲まれています。
先程も白子熊野神社が武蔵台地の谷合を整備した土地に建てられていると申し上げましたが、神社を囲む傾斜地には数か所の湧水地があります。江戸時代、白子宿は湧き水の豊かな江戸近郊の景勝地として知られていたそうで、今でも神社の南側を通る旧川越街道(県道109号線)沿いにある富澤湧水は湧水マニア(?)の間で名を知られた存在のようです。
富澤湧水地はボランティア団体のNPO法人和光・緑と湧き水の会が管理されいますが、同会HPによると湧水で作られる流れにはマシジミ、サワガニ、ヤゴ、プラナリヤなど清水に住む水生生物、水辺にはオニヤンマやオオシオカラトンボ、また四季を通して多様な鳥類を観察できるとのことです。富澤湧水は小規模な遊水地ですが、湧水と水辺、斜面林が織りなす生態系は生物多様性を感じさせる貴重な自然環境として、同会は平成21(2009)年に日本自然保護協会の沼田眞賞を受賞されました。

境内は広く、きれい
豊かな緑に囲まれた白子熊野神社の境内は広く、ゆったりとした時が流れいるように感じられます。日頃雑事に追われ、せわしい生活を強いられている私のような俗人にとってホッとする空間です。境内の片隅に大きな銀杏の木があって、その下に置かれたベンチに座ると境内全体が見渡せますが、ここから見える神社の本殿は小ぢんまりと落ち着いた雰囲気で、祀られている6柱の神様方が地域の人々から崇拝されていることを感じさせます。
白子熊野神社の境内はいつ行ってもきれいに清掃されて参拝者を気持ちよく迎えてくれます。4月下旬にお邪魔した際には、境内に造成されたいる富士塚を覆っているツツジが開花し、空には小さな鯉のぼりが舞って華やいだ雰囲気が漂っていました。

神社というと敷居が高く、近づき難い存在のように受け止める方もいると思いますが、実は真逆で緑に囲まれた神社は自然のエネルギーを放つパワースポットで、参詣する人々を誰でもリラックスさせてくれます。本誌をお読みの方も、一度、白子熊野神社を参詣されては如何でしょう。東上線成増駅を下車し、駅前を走る国道254号線の坂道を真直ぐ下って小さな橋を渡ると川越街道の旧道に入ります。そして直ぐの交差点を右に折れると、左手に白子熊野神社の参道があります。成増駅から歩いて12分程度。春の散歩にちょうど良い距離です。
長谷川清:全国地方銀行協会、松蔭大学経営文化学部教授を経て2018年4月から地域金融研究所主席研究員。研究テーマは地域産業、地域金融。「現場に行って、現物を見て、現実を知る」がモットー。和光市在住。