富士見市の難波田城資料館で企画展「東上線開通110年」が開かれている(2025年6月8日まで)。関連して3月15日、「東上線開通までの道のり」(老川慶喜立教大学名誉教授)と題する講演会が行われた。講演で老川氏は、明治以降、埼玉西部地域、東京・川越間には様々な鉄道敷設計画があり、その歴史の結果として大正3年(1914)の東上線開通があったことを示された。

東海道経由か中山道経由か
日本の鉄道史、地域史における東上鉄道の開通の意味に絞ってお話したい。
明治2年(1869)、明治政府はいち早く鉄道建設の方針を示した。その時、江戸と京都を結ぶ幹線と、それ以外に支線(東京・横浜、京都・大阪・神戸、琵琶湖近傍・敦賀)を作るとしたが、幹線は東海道経由か中山道経由かは決定していなかった
1871年の佐藤政養らの東海道に関する調査では、東海道はふさわしくないので中山道でいくべきと。太平洋岸は海運、街道も便利で鉄道は不要ということだった。
76年英国人ボイルが中山道を調査。これも中山道に敷設すべきと。当時政府で鉄道建設を担っていたのは「鉄道の父」とされる井上勝だが、井上もボイル報告を信頼した。ボイル報告には、東京・熊谷間では川越街道に着目すべきとの文面もあったが、検査したら川越街道ルートは傾斜が大きく、河川も多く、劣るという結果だった。橋をかける技術は発達していなかった
ところが1880年、狭山の製糸業清水宗徳ら地域の名望家は川越街道経由の鉄道を敷設すべきとの建言書を提出する。入間郡、高麗郡は製糸、製茶業が盛んで、鉄道建設の工事費も安いと主張した。
ただ、この建言書の発起人に川越の商人は一人もいない。建言書に名を連ねた人達が後に川越鉄道をつくるが、そこにも川越商人はいない。川越は新河岸川舟運で栄え、鉄道は必要ない。むしろ集散していた商品が入間・所沢方面に流れることを恐れた。

川越鉄道の開業:川越商人は反対
新宿と八王子を結ぶ甲武鉄道(現在の中央線)は、1886年に認可申請(開通は1889年)するが、この時保谷から所沢を経て川越までの分岐路線も計画していた。これに対し所沢町民は駅用地の寄付を申し出るなど誘致したが、この路線は実現しなかった。
ところが、今度は1890年、甲武鉄道国分寺駅から所沢を経て川越に至る川越鉄道(現在の西武国分寺線)の仮免状願が提出される。入間・高麗・比企・秩父郡は製糸・織物・製茶・石灰石など産業が盛んで工事も容易だと。
設立発起人には、雨宮敬次郎ら東京の著名な実業家、入間郡、高麗郡の有力者らの名があるが、やはり川越商人は入っていない。むしろ迷惑だという新聞広告を出している。協力を得られず敷地の買収が困難であっただけでなく工事の妨害まであったという(川上竜太郎『鉄道業の現状』)。
川越・東京間の鉄道敷設計画:中武鉄道、毛武鉄道、両毛鉄道延長、京越鉄道
川越鉄道は1894~95年に開通、その後、埼玉県西部地域、川越・東京間の鉄道布設計画が次々と出てくる。
- 川越鉄道線路延長願 川越から駒林(現ふじみ野市)、下新倉(現和光市)、上板橋を経てから万世橋。
- 中武鉄道 東京の実業家・政治家の中沢彦吉らが計画。東京から川越を通って高崎に抜ける路線だ。埼玉西部は東部に比べ発展が遅れているので何とかしなければという意図から。志木の大地主西川武左衛門、宗岡の荻島萬藏も敷設の請願を行っている。
- 毛武鉄道 計画が大きく、巣鴨を起点に池袋、板橋、白子、川越、熊谷、足利までの路線。久野木宇兵衛という東京・日本橋の実業家が中心になって進めた。毛武鉄道については、大和田(現新座市)を経由するか志木を経由するかで誘致合戦が行われた。当初の大和田経由が志木経由に変更されたことに、川越街道沿道の住民は「改正線路不認可願」を出し、志木は新河岸川に近いので水害を醸成、人家の移転も必要などと反対。志木町は、古来地方の要で貨物の集散も多い商業地であり志木に変更すべきと主張した。
- 両毛鉄道の延長線 両毛鉄道は前橋から小山まで織物地帯をつなぎ1889年に開業した。1895年に、熊谷、川越、大和田を経て東京に至る延長線計画が提出された。
- 京越鉄道 池袋と川越を結ぶ今の東上線と同じ路線。1902年免許申請。発起人は髙山仁兵衛、綾部利右衛門、山崎嘉七ら川越商人が名を連ね、福岡河岸の星野仙蔵も加わっている。川越商人は川越鉄道には不熱心だったが、この段階になり、舟運に替わる鉄道建設という認識を持つようになる。川越は「県下ニ於ケル唯一ノ都邑」「製産物ニ富ミ」と敷設理由を説明している。京越鉄道は実現しなかったが、ほぼ同じ路線に東上鉄道ができることになる。
東上鉄道の開業:根津嘉一郎に任せる
1903年、上野伝五右衛門ほか31人が東上鉄道仮免許申請を出す。上野は練馬の豪農・名望家だ。巣鴨から大和田を経て川越、高崎、渋川までを第1期線とし、第2期線として渋川から長岡まで至る、武州・上州・越後3州を連絡するというすごく大きな構想の下に生まれた。北越の地は物産の宝庫だが、山と海に囲まれ、交通の便を欠き、殖産のため鉄道が必要とする。
第1期線について1908年に仮免許が交付された。、路線は巣鴨から渋川まで。1910年上野伝五右衛門から根津嘉一郎に対しすべて任せるとの委任状が出て、1911年根津を社長に設立総会を開く。
根津は雨宮敬次郎らと同じ甲州財閥の一員。東武鉄道(本線)は東京の資本家たちが創るがうまくいかず経営を立て直したのが根津。根津は「鉄道王」、「ボロ買い嘉一郎」と呼ばれ、東上鉄道の再建を託された。
東上鉄道路線に関し、大和田と志木の争いがあった。計画は元々大和田経由だったのが志木経由に変わった 毛武鉄道と同じような誘致合戦が繰り広げられた。志木は新河岸川で繁栄しているので志木の方がよいという主張、大和田は川越街道の要衝で農産物が集散していると。株は大和田の方がたくさん持っていたが、志木では井下田慶十郎が一生懸命働いたからと言われている。私は根津嘉一郎が判断したのだろうと考える。鉄道路線に関しては、地域の反対とか、誰々が熱心に誘致したからという話があるが、それで路線が決定されることはあまりない。やはり経営判断したのだろう。
東上鉄道は大正3年(1914)5月1日に開業した。田面沢・川越・上福岡・鶴瀬・志木・膝折(現朝霞)・成増・下板橋・池袋の33.5キロ。池袋から山手線・東京市電を経由して東京市内各所に出られた。
開業で一番影響を受けたのは新河岸川舟運だ。輸送手段としての舟運が鉄道に奪われていく。
その後1920年、根津嘉一郎は東武鉄道と東上鉄道を合併した。両方とも根津が経営していた。合併のメリットは、つなげて車両などを倹約できることだったが、両鉄道の接続は実現しなかった。
東上鉄道のそもそもの計画は、上州さらには新潟まで行くということだったが、寄居までで終わる。ただ寄居を経由して八高線で上州とつながった。
東上鉄道開設に功績のあった星野仙蔵と井下田慶十郎
東上鉄道開設に功績のあったのは、舟運に従事した二人の人物、星野仙蔵と井下田慶十郎だ。星野は福岡河岸で福田屋という回漕問屋を営み、将来を見越して東上鉄道布設に尽力した。井下田は引又河岸(志木)の回漕問屋。私は志木史編さん作業をしていた時、彼の病気見舞いに返事の下書きを見た。県東部の蕨・大宮、・浦和は日本鉄道(現JR)の開通で日増しに発展しているのに、こちらは遅れていると言っていた。だから河岸問屋であっても鉄道の必要性を認識し明治20年代の早い時期から積極的にいろいろな鉄道誘致に関わって、最後に東上鉄道の開通で努力が実を結んだ。
企画展「東上線開通110年」