かつて国民病と言われた結核。記憶に新しい新型コロナと似て人々から恐れられ、療養所の建設には各地で激しい反対運動が起きた。結核と療養所の歴史について、公益財団法人結核予防会結核研究所の青木純一客員研究員にお聞きした。
(結核療養所は現在の東京都清瀬市に数多く建設されました。次回は「結核と闘った清瀬」記事を掲載いたしまず)
大正から戦前期にかけ流行、昭和30年頃までは大勢の患者
―結核は伝染病ですか。
青木 一般的には飛沫感染ですが、飛沫が乾くと菌が浮遊するので空気感染にもなります。 新型コロナとほとんど同じですが、コロナより感染力が強いです。
―日本で流行したのはいつ頃ですか。
青木 基本的には戦前です。死者数で言うとピークは大正7年(1918)で15万人くらい、 患者数で言えば戦後にもう一つのピークが来ます。予防会が昭和28年に全国調査をした時、治療の必要な患者が300万人くらいいました。
化学療法、衛生環境、栄養状態の改善で治る病気に
―患者が減ったのはどうしてですか。
青木 戦争中にストレプトマイシンという特効薬が発見され化学療法が発達し、結核は治る病気、死なない病気に少しずつ変っていきます。併せて、衛生環境、栄養状態も含めて世の中が変ってきたことが大きいと思います。
―BCGワクチンの効果は
青木 一定の予防効果がありました。現在は乳児に接種が推奨されています。昔のように学校での接種は行われていません。
大正9年(1920)、東京中野に日本最大の療養所が完成
―結核患者は一般病院では受け入れなかったのですか。
青木 部分的に結核病床はありましたが、感染するので一般病院では受け入れにくいのです。よほどちゃんと隔離されていないと。そこで結核専門の病院や療養所が必要になります。
―療養所の歴史は。
青木 最初は民間の療養所ができました。志のあるお医者さんが各地に民間の療養所をつくりました。しかし大正時代初め頃から患者が急増し、このままでは日本はつぶれちゃうという議論になり、療養の途のない貧困患者のために公立の療養所をつくれということになります。大正8年に大阪の刀根山療養所が、大正9年(1920)に中野に東京市療養所が500人規定員で開設し、以後各地にできていきます。
―施設が足りなかったわけですね。
青木 戦前は絶対的に足りない。当時は死亡者の10倍くらいは患者がいると言われ、15万の死亡者なら150~200万人くらいの患者がいたことになる。しかしベッドはない。特に、戦前の病床数は少なかった。戦争が終わり療養所が増えても、患者が多くて昭和20年代は満床状態。入所を希望しても1年くらい待たなければならない時期もありました。
風評による反対運動
―療養所をつくる際には地域住民による反対があったそうですね。
青木 療養所をつくる時には全国でものすごい反対運動がありました。
―感染の恐れからということですか。
青木 そのとおりです。ただ、療養所に運よく入所できる患者はごくわずかで、たいがいは自宅で療養します。結核患者のいる家の前を通るとき、「この家は肺病の家だ」と口を押さえて通り過ぎるという時代です。中野に療養所をつくる時も作物が売れなくなる、土地が安くなるなど、今の原発問題のような風評がありました。
大気、安静、栄養の自然療法
―治療には環境面から場所は限定されるわけですね。
青木 自然療法と言って、大気、安静、栄養。空気のきれいなところに静臥し、十分な栄養をとる、それが療養の基本でした。
―立地は限定される。
青木 療養所がつくられるその当初は、たとえば相模湾沿いの茅ヶ崎のような海沿い、あるいは山間部の高原です。サナトリウムと言われた民間療養所はホテルのような豪華さで、患者はお金持ちでないと入れない。それで公立の療養所がスタートします。ところが公立療養所は比較的町中にたくさんの患者が集まるわけで、全国どこでも「反対」される訳です。当時の新聞を見ると「反対運動熾烈」といった見出しのオンパレードです。
―清瀬には多くの療養所ができた。
青木 清瀬は、最盛期は10を超す療養所がありました。広い雑木林が残り、また隣接地にはすでにハンセン病の療養所(多磨全生園)もあり、イメージ的に作りやすかったと思います。1931年(昭和6)には府立清瀬病院ができますが、その際にも反対運動はありました。
療養所に20年間入所した人も
―療養所はどのくらいの期間入所するのですか。
青木 一般的には早くて1年くらい。入院中に悪化して亡くなる人も多い。東京市療養所の設立当初は、入所者の51%が入所1か月で亡くなっています。長い人は20年とか私私はいま入所経験のある元患者にヒアリングしていますが、最近お話を聞いた人は10年も入所し、その間3年ほどはお風呂にも入れなかったそうです。
―戻れる人はどのくらい。
青木 戦前の公立の療養所の死亡率は40~50%でした。半分の患者が亡くなるとなると、無事に退院できるというイメージは持てないですね。
―治癒率の高かった療養所は。
青木 民間療養所の治癒率は高く、死亡率は2割くらいだったと思います。民間は公立と違って軽症者で治りやすい人を対象にしますから、治癒率も高いといえます。もちろん、お金のある人しか入れません。公務員の給料が75円の頃、民間の入院費1日3円から5円ですから、プチホテルです。
―療養所を舞台にした文学作品も。
青木 たとえば長野県の中央線沿いにある富士見高原療養所を舞台にした「風立ちぬ」(堀辰雄)は有名。結核で療養所生活を送った作家は山のようにいますね。
結核専門病院・療養所はなくなったが、いまでも日本では毎年千人以上が亡くなる
―昭和30年代に入ると、療養所は減ってきます。
青木 戦後、結核が治る病気になると、患者の減少にともなって療養所は総合病院に変わります。あれだけあった結核療養所も21世紀の初めにすべてなくなりました。今でも結核病床をもつ病院はありますが、結核専門ではありません。
―今でも患者はいるのですか。
青木 日本では毎年千人以上の人が結核で亡くなっています。
高齢者と外国人が多い
―今の感染はどういう形が多いのですか。
青木 大きく2つのケースがあります。1つは若い時に結核に罹ったけど治癒し、高齢になって封じ込められていた結核菌が再び悪さをするケース。もう1つは外国から来た人。今でも世界には結核で亡くなる人が130万人くらいいます。世界の3大感染症はエイズ、結核、マラリアですが、その中でも結核は一番多いのです。
―最近は老人の患者が多いのですか。
青木 老人と外国につながる人ですね。高齢になって体が弱ると封じ込めていた結核菌が暴れ出す。
―感染防止のためにはコロナのようにマスクする、接触を避けるということですか。
青木 そうです。今ならマスクの着用になりますね。ただ、結核が難しいのは菌を吸っても必ずしも皆が発病するわけではなく、発病しても自然治癒する場合もあるというところでしょうか。
―今専門病棟がある病院は。
青木 正確にはわかりませんが、結核病床数は全国で3千弱、清瀬の東京病院や複十字病院には50床前後の結核病床があります。
結核予防会
―結核予防会とは。
青木 元々大正の初め頃は年間10万人を超える人が亡くなり、結核は国民病、亡国病とか言われており、その対策を担う国家的組織として北里柴三郎や政府の関係者が中心になって日本結核予防協会という組織を作りました。昭和14年、組織をさらに拡充し、現在の公益財団法人結核予防会となります。医学的な基礎研究から啓蒙活動、途上国の支援などに取り組み、現在の尾身茂理事長は、コロナ流行の際には国の先頭に立って活躍しました。
―清瀬という地域について。
青木 清瀬は面白い町です。療養所の歴史があり、現在も医療、福祉施設がまとまっている。前清瀬市長はこの病院全体を世界遺産にしようと考えていたようです。退院した後に清瀬に住み着く患者もいて、清瀬でお店を開いた人もいました。清瀬はまさに〈病院の街〉です。
―青木さんは、どういう経緯で療養所の歴史を。
青木 私が結核研究に関わるようになったのは今から30年前です。私は清瀬小児病院の院内学級の教員をしていたのですが、たまたま結核児の担任をしたことが興味の始まりでした。清瀬には元は療養所であった病院やハンセン病療養所があり、その歴史的を調べてみたいと、土曜や夏休みなどに研究所に通って古い資料を調べるようになったのがこの研究の始まりです。その成果を2004年に『結核の社会史』という本にまとめました。以降、大学や結核研究所に籍を置きながら、結核に関わる研究を続けています。
(取材2024年10月)