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井上円了 東洋大学の創立者 哲学堂を開設 妖怪学で「こっくりさん」解明

 井上円了(1858~1919)は明治から大正にかけて活躍した哲学者で、現在の東洋大学の前身である哲学館を創立した。社会教育にも力を入れ、全国を講演で巡回、中野区にある哲学堂公園を開設した。「こっくりさん」の解明など妖怪学でも知られる。井上円了はどんな人だったのか、どんな実績を残したのか、東洋大学井上円了記念博物館学芸員の北田建二さんにご説明いただいた。

井上円了像
東洋大学白山キャンパスに立つ井上円了像
井上円了肖像
井上円了肖像(岡田三郎助画、井上円了記念博物館展示)

井上円了記念博物館は平成17年に開館しました。当館は東洋大学が収集してきたさまざまな歴史資料や美術作品などを保存・展示するとともに、本学で行われている教育・研究の成果を展示というかたちで一般に公開する場でもあります。さらに、本学の学生が学芸員資格を取るための現場での実習を行うこと。これらが、当館の主な役割となっています。

常設展では「井上円了 その生涯と教育活動」と題して、本学の創立者である井上円了の生涯を紹介しています。展示を通して、東洋大学の137年の長い歴史の原点に井上円了という人物が存在することを学内外の方々に広く知っていただければと思っています。今回は常設展から井上円了の業績などを見ていきます。

在野の立場で哲学を追究

井上円了パネル
井上円了等身大パネル

こちらに展示されているのは井上円了の等身大パネルです。身長は161cmと、現代の基準で見ると小柄です。この隣に飾られている幕には、「官々となる金石の声よりも民々と呼ぶ蝉そこひしき」という円了の書が印刷されています。円了は徹底して在野の人でした。このダジャレを交えた詩文からは、在野の人間としての強い信念とともに、ユーモアのある人柄も感じられます。 

四聖図

ここに描かれた人物は、釈迦、孔子、ソクラテス、カント。円了はこの4人を古今東西を代表する哲学者として、「四聖」と呼び、尊崇の念をあらわしました。この作品を描いたのは近代日本画の巨匠橋本雅邦です。画面の中で、人物は年代順に配置されていて、手前側から奥に向かって時代が遡るように描かれています。その観点で見ると、カントやソクラテスよりも以前に孔子がいて、さらにそれより古い時代に釈迦がいる。つまり、西洋で哲学が誕生するよりも以前に、東洋哲学が存在しているということになります。この作品は、4人の哲学者を描いたというだけではなく、西洋哲学に対して、長い歴史をもつ東洋哲学は決してひけを取るものはない。このような井上円了の考えを表現したものでもあるのです。

四聖図
四聖図

長岡の真宗大谷派の寺院に生まれる

井上円了は、現在の新潟県長岡市にある真宗大谷派の寺院の長男として生まれました。幕末から明治にさしかかる時期に、医学者で後に陸軍軍医総監となる石黒忠悳や、長岡藩の藩校の校長も務めた木村鈍叟といった、長岡きっての学者たちから漢学を学びました。その後、16歳で、長岡の旧城下町につくられた洋学校に入学し、当時最先端の英学などを学びました。これがきっかけとなり、真宗大谷派の本山である東本願寺から新時代を担う優秀な人材として選抜され、東本願寺が設立した教師教校英学科に入学します。さらに、ここで英才を見込まれ、東本願寺の留学生として明治14年に東京大学文学部哲学科の1期生となりました。

言ってみれば、円了は真宗大谷派の若きエリート僧侶なのです。ですから、本来ならば大学卒業後は本山に戻って、次世代リーダーとして教団を引っ張っていくような人物にならないといけない。もし、宗派に戻らなかったとしても、この時代に東京大学を卒業していれば、官学の教員や国家官僚になるというエリートコースも選択肢にあったかもしれない。ですが、大学で哲学と出会ったことが、その人生を大きく変えたのです。

円了は、卒業後、在野の哲学者となって自ら哲学書院という出版社を立ち上げ、哲学書を発表していきます。それとあわせて、大学時代から計画していた哲学館という名前の私立学校の創立へと動きはじめるのです。

『仏教活論序論』

「仏教活論序論」
「仏教活論序論」

東京大学卒業後、哲学書院から出した円了の代表的な著書が『仏教活論序論』です。この著書で円了は、西洋哲学を学んだ眼を通して、自分が幼いころから接してきた仏教を東洋固有の哲学として評価します。同時に、哲学である仏教を広めることが、これからの日本社会に必要であると世の僧侶たちを鼓舞し、仏教界に大きなインパクトを与えました。さらに、古くさいと思われていた仏教の教えが、最先端の西洋哲学にも匹敵すると知らしめたことで、その影響は仏教界を超えて広く話題となりました。

『妖怪玄談』

『仏教活論序論』を出版した直後に、円了は『妖怪玄談』というタイトルの本も出版しています。表紙に描かれているのは、「コックリ」(こっくりさん)。といっても、現在、広く行われているコインを使うものとは異なります。この本が出版された明治時代には、細い竹の棒を組み3本脚にして、その上にかぶせた飯びつの蓋の上に数名が手を置き、蓋がどう動くかで占いを行うというのがコックリのやり方でした。

「妖怪玄談」
「妖怪玄談」

これが当時、大流行していたのですが、円了はそもそもなぜこんなことが民衆に信じられて行われているのか疑問に思ったのです。そこで調査を行ったところ、どうやら伊豆の下田付近にアメリカ人の船乗りたちが滞在した際、テーブルターニングという西洋の占いを伝えたことが起源になっていることを明らかにします。さらに、コックリの名前の由来、占い方とその原理についても解明しました。

このように、円了は世の中で不思議とされる存在や出来事に対して、哲学者として「これは何なのか?」と疑問をもち、一つ一つ調べ、とことん考えたのです。こうした研究の成果が、のちに『妖怪学講義』という6巻の著書として結実しました。『妖怪学講義』はロングセラーとなり、井上円了の名前も「妖怪博士」というあだ名とともに世間で広く知られるところとなりました。

明治20年、哲学館を創立

哲学館の教室
哲学館創設時の教室

哲学とその周辺学問を教える学校として哲学館が創立されたのは、明治20年になります。最初の募集人員は50名でしたが、入学希望者が絶えず、最終的に150人近い人数まで定員を増やすことになりました。写真は創立時に使用していた教場です。場所は東大のすぐ近く、現在の文京区湯島にある麟祥院というお寺で、その境内にある建物1棟を借りて活動が始められました。現在の白山キャンパスに校舎が移るのは、創立から10年後の明治30年になります。

「護国愛理」

「護国受理」の書
「護国受理」の書

ここに展示した「護国愛理」の書は、かつて哲学館の講堂に掲げられていたものになります(展示品は複製)。筆をとったのは小松宮彰仁親王ですが、言葉自体は円了の造語です。一見すると国家主義的な言葉と思われそうですが、そうではありません。哲学者として真理を愛しこれを追究するだけでなく、学問を通して社会の発展に尽くさなければならない。そのような円了の学者・教育者としての信念をあらわした言葉なのです。円了はこの「護国愛理」の信念に基づき哲学館での教育に取り組みました。

勝海舟の支援

この仏像は勝海舟から円了に贈られた文殊菩薩像です。実は、円了が結婚した際に仲人をつとめたのが、海舟の三女の逸と目賀田種太郎の夫妻で、その縁で海舟との知遇を得ることになりました。それから円了は海舟を「精神上の師」とあおぎ、そのもとを訪れては哲学館の経営について相談するようになります。海舟も熱心に円了のことを指導するなど、物心の両面で惜しみない支援をしました。この文殊菩薩像はこの師弟の縁を表すもので、円了にとっては大事な宝物だったのです。

勝海舟から贈られた仏像
勝海舟から贈られた仏像

東洋哲学を核とする大学

 哲学館は円了の経営努力もあって着実に発展していき、2度目の校地移転で現在の白山キャンパスに校舎を構えることになりました。明治36年には文部省から専門学校令という法律に基づく高等教育機関として認可を受け、名称を「私立哲学館大学」に変更しました。ここに展示した書は、「哲学館大学開設旨趣之詩」と題した円了の作品です。内容は、この表題の通り、円了が哲学館大学の設立趣旨を漢詩で表したものです。

哲学館大学開設旨趣之詩
哲学館大学開設旨趣之詩

 このなかに、「今より、富士山頂にかかる月のごとき東洋哲学の真理の光は、西洋にまで達し、無明の雲を照破(しょうは)するのである」という一節があります。日本において東洋哲学の教育・研究を核とした大学をつくり人材を世に送り出すことで、日本が欧米諸国と対等に伍していけるようにするのだという強い自負が感じられます。明治39年に哲学館大学は東洋大学に名称を変更しますが、私は「東洋」の名を冠した大学の名前の由来はここにあるのではないかと考えています。

精神修養的公園 哲学堂

明治39年、円了は病気を理由に哲学館大学の学長を辞任します。学校教育からはいっさい手を引いて、これ以降は哲学堂を拠点とした社会教育活動に専念することになります。

哲学堂の敷地はもともとは哲学館大学の移転先として購入したものですが、円了が大学を辞める際に買い取って「精神修養的公園」として整備が行われていきました。敷地のなかには「七十七場」と呼ばれる哲学にちなんだ名称をもつ建物やモニュメントなどがつくられており、これらを巡り哲学を学ぶことを通して精神修養を行うという世界でも唯一無二の施設です。

哲学堂哲理門
哲学堂哲理門

現在は中野区の都市公園となっていますが、いまも円了の時代につくられた七十七場の構成や古建築物などがよく残されており、令和2年には国指定名勝になりました。いまでは「哲学のテーマパーク」という愛称もあるようですが、率直に言って私はあまりこの呼び方は哲学堂公園になじまないように思っています。

哲学堂公園の案内
哲学堂公園の案内板

全国巡回講演

 円了が後半生において、もっとも力を注いだのが全国巡回講演です。この活動は全国各地をツアーして講演会を開催するもので、哲学館の時代から継続して行ってきた円了のライフワークでした。聴衆は老若男女を問わず、地方都市だけでなく山間地や沿岸部などの交通不便な地域にも自ら直接足を運んで講演を行うというのが、円了のスタイルでした。

全国巡回講演
全国巡回講演(大正5年、山口県)

中国で講演中に倒れる

この展示ケースの奥に展示されているのは、講演先で亡くなった際に円了が所持していた旅行用カバンです。円了は、大正8年に中国旅行を行ったのですが、最後の滞在地であった大連で講演している最中に倒れ帰らぬ人となりました。最後の最後まで教育者としての志をもちながら61年の生涯を閉じました。

井上円了の旅行カバン
井上円了の旅行カバン
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哲学館の開設の資金は?

―大学を出てすぐ哲学の学校を作るなどちょっと信じられないですが。資金はどうしたのでしょうか。

北田 まず著述活動で自分の名前と思想を広めるとともに、自分の知人たち、さらには有爵者や著名な学者たちにも協力を求めました。それと同時に、雑誌に哲学館の設立趣旨を発表し、広く賛同を募りました。このようにして賛同者と寄付金を集め、哲学館の創立につなげていったと考えられます。

釈迦、孔子は哲学者?

―四聖は釈迦、孔子、ソクラテス、カントとしていますが、釈迦や孔子は哲学というより聖人、宗教家というのが一般のイメージです。

北田 たしかに仏教は宗教ですし、儒教も宗教としての側面があります。それでも円了は、釈迦も孔子も東洋を代表する哲学者・思想家と考えているのです。

 円了は、キリスト教に関しては宗教ではあるが哲学ではないと言っています。したがって、キリストも宗教者ではあるが哲学者ではない。これに対して、仏教はその教えのなかに真理がある、すなわち東洋の哲学である。だから、その教え説いた釈迦は宗教家であるだけでなく、哲学者でもある。円了はこのように説明しています。

最後は仏教、東洋哲学に行き着いた?

―最後は仏教、東洋哲学に行き着いたということですか。

北田 「最後に行き着いた」のではなく、むしろ東京大学の学生時代に仏教が東洋哲学であることを発見したことが、哲学者で教育者である井上円了の始まりなのです。ですから、「最初に行き着いた」と言うべきでしょう。

 円了は哲学館を創立した翌年から1年間、欧米諸国における教育の実情を視察してまわりました。その結果、列強と呼ばれる欧米諸国がそうであるように、もっと日本の学問にも「独立」が必要と考えるようになりました。その流れのなかで、哲学館の教育において、それまで以上に東洋哲学を重視するようになりました。要は、欧米化一辺倒ではなく、「東洋」を基礎としながら「西洋」からもよいところを取り入れることで、日本独自のスタイルを目指そうとしたのです。決して東洋哲学を帰着点としたものではありません。

妖怪への関心はどこから?

―妖怪や不思議なものへの関心はあくまで科学的な立場からということですか。

北田 妖怪学についてよくそのような説明がされているのを見るのですが、確かに自然科学を含めた「科学」という側面があるのは間違いでしょう。ですが、その根本にあるのはやはり哲学なのです。哲学とは「これは何だろう?」と問いを発することと言われます。哲学者である円了はコックリのようなものに対しても、端から「うそだ」と否定するのではなく、かといって「怖い」とおそれるのでもなく、一切の偏見を捨ててニュートラルなところから「なんだろう?」と問うわけです。こうした哲学的なものの見方・考え方をもって、世の中で不思議とされているに存在にアプローチしたのが井上円了の妖怪学といえます。

世間的には、円了は「迷信打破」をかかげて妖怪を研究した人だから、大の妖怪嫌いだというイメージがあるかもしれません。ただ、当館で展示している鬼の絵が入ったタバコ入れとか幽霊画とか、妖怪に関わるモノや絵などを熱心に集めているのを見ると、意外と本人は妖怪が好きだったのかなと、私には思えます。

講演の内容は?

―全国を廻る講演でどんな話しをしたのですか。

北田 メニューのようなかたちで、あらかじめいくつかのテーマが用意されていて、そのなかから主催者に選んでもらう形式になっていました。哲学、妖怪学、道徳修身、世界旅行の体験談など、テーマはバラエティにとんでいて、話も非常にわかりやすかったと伝えられています。話術にもたけていたのでしょうね。

円了はどんな人だったのか?

―北田さんから見て円了はどういう人だったと考えますか。

北田 一言で言うと頑固。やると決めたら最後までやり通す強い意志をもち、自分の信念とするところは生涯ブレずに持ちつづける。だからこそ、教育事業家として哲学館と哲学堂という二つの教育機関を立ち上げるだけでなく、自分が亡くなった後もこれらがしっかりと継承されて、今に残るまでに発展させられたのだと思います。

 その一方で、いろいろなものに興味をもって面白がることのできる人だったようにも思います。それが円了の行動の原動力になっていたのではないでしょうか。

井上円了記念博物館北田さん
北田さん

東洋大学井上円了記念博物館 

(取材2024年8月)

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