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長谷川清の地域探見(23) 渋沢栄一と二人の師(その1)

今月3日から20年ぶりに新しい紙幣が発行されています。その中で新しい一万円札は、表面に明治時代日本に株式会社を導入し、産業界を立ち上げた埼玉県深谷市出身の渋沢栄一(以下・栄一)、裏面に深谷市にあったレンガ工場で生産された赤レンガを使った旧東京駅(丸の内駅舎)が描かれています。

新一万円券(見本)

東上沿線には栄一に繋がる話題が結構あって、数年前のNHK大河ドラマや今般の新紙幣発行に関連していろいろなマスコミ媒体で栄一の特集が組まれました。本誌でも何度か取り上げていますのでお読みになった方もいると思います。私も職業柄、銀行の歴史と栄一の足跡について関心を持ち続けてきましたが、その経験から栄一の長い生涯を考える際には父渋沢市郎右衛門と従兄尾高惇忠の二人から受けた指導が重要な意味を持っていると考えています。今回と次回の2回にわたり、栄一が彼らから受けた指導を振り返ってみましょう。

秀でた渋沢栄一の能力

栄一は、天保11(1840)年2月、岡部藩が治める武蔵国榛沢郡(はるさわごおり)血洗島村(ちあらいじまむら、現在の埼玉県深谷市血洗島)で農業、養蚕、藍玉の製造販売などを兼営する豪農の渋沢家「中の家(地元の方はナカンチと呼んでいます)」に生まれました。父は三代目渋沢市郎右衛門(1809~1872年)、母はえい(1811~1874年)、栄一の幼名は市三郎(または栄治郎)です。栄一が誕生した時は上に二人の兄がいましたが、二人とも早世したことから両親は栄一を事実上の長男として育てました。

栄一は身長150㎝前半の幕末当時でも小柄な方でしたが、幼いころから利発・活発で、何事に対しても機敏に取り組む行動力に溢れた闊達な少年に成長、13歳になると父親の仕事を手伝って藍玉の製造販売に従事します。栄一は小柄ながらもキビキビ行動し、記憶力は抜群で仕事の呑み込みが早く、的確な判断を下して業績を伸ばしました。

渋沢栄一の等身大パネル

30歳の頃、栄一は大隈重信の肝入りで混乱した社会を立て直すための準備を担当する改正掛として民部省に入省します。省内からは最後の将軍となった徳川慶喜の臣下だった栄一を採用することに強い反発がありましたが、いざ仕事をさせてみると栄一はそれまでに培った実務経験や渡欧して見聞した西洋事情を生かして金融、財政、行政、殖産興業など多方面にわたって的確かつ精力的に仕事を進めました。この姿を見た周囲の人々は驚いてしまい、採用に反対していた連中も皆恐れ入ってしまったという逸話が残されています。

民部省で勤務した後、栄一は日本で最初の銀行である第一国立銀行の頭取となり、多くの銀行や事業会社の創業を支援、商工会議所、手形交換所、証券取引所など資本主義経済のインフラ機関も設立して日本の産業界を名実ともに立ち上げた人物となります。この功績が今般の新一万円札の顔となった理由であることは言うまでもありません。

父親から事業経営の基本を学ぶ

栄一の父市郎右衛門は、渋沢一族である「東の家」の三男(幼名・元助)として生まれ、若い時期は武士を志したようですが、一族の「中の家」が苦境に陥り、その立て直しのため家付き娘のエイに婿入りして三代目市郎右衛門を襲名しました。婿入りが決まった際に元助は、「自分がやることに誰も文句を言わず、経営を任せてもらうこと」を条件にしたと伝えられます。その上で実家からの支援を受け、「中の家」の先代が売り渡した田畑を買い戻し、かつ藍玉の製造販売も再建、さらに質屋や金貸し業にも手を広げて「中の家」を見事に再興させました。

三代目市郎右衛門が最も力を入れたのは、「中の家」が家業にしていた藍玉の製造販売です。藍玉は、藍の葉を乾燥・熟成させて作る蒅(すくも)を丸く固めた藍染めの材料です。良質の藍玉を作るためには、藍葉の生育状態や採取後の乾燥状態が良くなければなりません。業者は乾燥させた藍葉を小さく刻んで莚(むしろ)に広げ、その上から水をかけて寝かせて発酵させます。蒅の品質は寝かせ方が重要で、上手に寝かせた蒅で作られる藍玉を使って染色すると藍の発色が良いため染物業者の紺屋に高く売れ、藍玉業者はかなりの利益が得られます。

ただし、藍玉の製造販売業は誰でもできる訳ではありません。原料となる藍葉の買い付け資金、買付けた藍葉から藍玉を作るための製造資金、作った藍玉を紺屋に販売して代金を回収するまでの運転資金などを合わせると相当な資金が必要になるからです。「中の家」の先代が失敗したのは、良質の藍玉作りが出来ず、つれて販売も不振で大きな損失を生んでしまったことが原因だったようで、三代目市郎右衛門は自分なりのやり方でこれを取り戻そうとしたわけです。

では三代目はどの様な方策を立てたのでしょう。これは私の想像ですが、彼は成功の鍵を良質の藍の葉を仕入れることだと考え、少し値段が高くても良質な藍葉だけを仕入れ、それ高品質の藍玉に仕立て、高価格で販売することで大きな利益をあげる事業計画を作ったのではないかと思います。計画に必要な資金は実家から調達し、見事事業を成功させて実家からの借財を返済し、併せて「中の家」を立ち直らせたのではないでしょうか。

さらに市郎右衛門は栄一にとって人生最初の師となりました。市郎右衛門は、年少の頃から栄一をつれて藍葉農家を廻り、藍葉の鑑定や農家とのやり取りを見聞させ、藍玉の販売話法や代金の回収方法を実地で教えたのです。そして栄一が13歳になると家業を手伝わせて農業だけでなく、藍葉の買入れ、藍玉の製造販売に従事させ、17~18歳の頃には信州(長野県)や上州(群馬県)の得意先回りを栄一に任せるようになりました。栄一の得意先回りは、彼が青年志士として活動する20歳過ぎまで続けれたようです。

藍玉の販売は結構難しい仕事です。藍玉を販売する相手の紺屋からは販売代金をすぐに払って貰えません。当時の商慣行もあって、藍玉の代金は盆と暮とに纏めて受け取るため、販売と代金回収の期間が長く、かつ代金の回収が保証されていなかったからです。

というのも、紺屋は仕入れた藍玉を使って得意先の注文に応じて生地を染め上げて納品し、代金を受け取り、その販売代金の中から藍玉の購入代金を支払うことになりますが、紺屋の代金回収は紺屋が品物を収める呉服業者の状況に左右されるからです。呉服業者が潰れたりすると代金の回収は出来なくなり、自ずと藍玉の購入代金も支払いが困難になってしまいます。したがって藍玉業者は藍玉を売る際に紺屋の経営状態だけでなく、その販売先の状況もしっかり把握する必要があります。その上で代金の回収が確実な先を選別し、不安がある先には販売を控えることが大切になるのです。

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経営実務を体得させる

これも父親から指導されたのでしょう、栄一は年に4回は販売先の紺屋を訪問して注文を受けながら経営状況を確認していたようです。紺屋の主人と和やかに会話しながら紺屋の取引先とその取引状況、紺屋業界のうわさ話などを仕入れていたのでしょう。さらに会話を通じた主人の人柄、経営能力などを評価し、次の取引に生かしていたのでしょう。東京王子にある渋沢資料館に展示されている「中の家」の藍玉通い帳には栄一の記帳が残されていますが、神経の行き届いた筆遣いで取引先の状況をしっかり把握していることが伺われます。

「中の家」藍玉通い帳に残る頃栄一の筆遣い

人と会う仕事をされた方はお分かりだと思いますが、会話を通じて相手先の状況を把握するのは簡単ではありません。まずもって自分が相手から信頼を得なければ打ち解けた話を聞かせてもらえません。相手から信頼を得るのは容易でなく、当人の人柄・能力が試されます。たとえ話が聞けても当人に知識・経験がないと相手の話を理解することができません。世の中には極わずかですが、出会った人を直ちに和ませ、惹きつけるオーラを持つ方がいますが、栄一もその一人だったようです。栄一は初対面の人でも、会ったとたんに惹きつけて長年の友人のような打ち解けた会話ができました。多分、栄一は会話を通じて相手の人柄を把握し、話に嘘があれば直ぐに見破ってしまったのでしょう。

ついでですが、栄一は生涯を通じて複数の妾を持ち、庶子も多かったと伝えれれます。これに対して評論家の中には現代の倫理観から栄一の行動を非難する向きもありますが、現代の倫理観で過去の人物を裁くのは慎重でなければなりません。彼女ら多くは、栄一の人柄に魅入られ、支援を喜んで受け入れたようです。また栄一は、彼女たちたちを最後まで面倒を見ただけでなく、二人の間に生まれた子供たちの世話も欠かさず、能力を見定めて適切に処遇したと伝えられます。

話を戻します。少年から青年期にかけて取り組んだ藍玉販売の経験は、栄一が銀行経営者になった際に大いに生かされました。銀行経営の基本は、多くの人々から預託された預金を貸出や国債などの有価証券で運用して得られる利ザヤを確保することです。銀行業の歴史を通じて言えることは、経営が破綻した銀行の多くが貸出する前の審査が甘く、事業者への貸出が返済されず不良化して経営が悪化したということです。つまり銀行経営者に事業者を見る目がなかったということです。その点、栄一の事業を見る目は他の銀行経営者を圧倒しており、明治大正を通じて多くの銀行が破綻する中で栄一が銀行の頭取を40年も務め上げることができたのは歴史的な快挙だと私は思っています。

栄一の事業を見る目は少年時代の藍玉販売に育まれ、藍玉業を通じて事業の運営方法、管理の着眼点を自然と体得することができました。後日、栄一が徳川昭武の訪欧随行員に加えられたのは、当時将軍後見職だった徳川慶喜からその実務能力が買われたからです。栄一が身に付けた実務能力は、欧米の諸制度を理解吸収する素地となり、銀行創設、株式会社組織や簿記会計制度の導入などに繋がりました。こうした栄一の足跡を振り返ると、父市郎右衛門が栄一に下した実践教育が、とてつもなく大きな成果を生み出したことに気付かされるのです。

次回は、栄一にとって学問の師であり、その目を世界に開かせた従兄の高尾惇忠をご紹介しましょう。

長谷川清:全国地方銀行協会、松蔭大学経営文化学部教授を経て2018年4月から地域金融研究所主席研究員。研究テーマは地域産業、地域金融。「現場に行って、現物を見て、現実を知る」がモットー。和光市在住。

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