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新種の桜「長勝院ハタザクラ」は在原業平の物語の舞台に立つ 尾﨑征男さん(志木市)

志木市柏町の柳瀬川沿いの小高い丘の上に立つ、桜の古木「長勝院ハタザクラ」。この桜は、約30年前に発見された世界で1本だけの新種である。桜のある場所は平安時代「伊勢物語」に描かれた歌人、在原業平(ありわらのなりひら)の物語の舞台であり、ハタザクラは物語と関連している可能性がある。ハタザクラを発見し、現在は川越市で古美術店を開いている尾﨑征男さんにお話をうかがった。

長勝院ハタザクラ

6~7枚の花弁を持つヤマザクラの一種

―長勝院ハタザクラとはどんな桜ですか。

尾﨑 桜の花は通常花弁が5枚ですが、この花はそれ以外に雄しべが変化した1~2枚の花弁があります。旗のように立っているのでハタザクラと呼びます。ヤマザクラの一種ですが、花弁が多い他、花も葉も大きいなどの特徴もあります。

―この花が新種の桜だと尾﨑さんが発見し、世界で1本の桜だと認定されたわけですね。

尾﨑 私は最初古木で珍しい桜なので天然記念物に指定したらどうかと声を上げました。平成5年に志木市の天然記念物第1号に指定され、その後専門家の調査を経て平成10年に世界に1本の桜と認定されました。

長勝院ハタザクラ遠景
2024年3月31日撮影
長勝院ハタザクラ(2024年4月10日撮影)
長勝院ハタザクラ説明

浮世絵の版木に使われる桜に興味を持つ

―尾﨑さんがハタザクラを見つけたことを知らない人が多いと思いますが、どのような経緯でこの桜に目をつけたのですか。

尾﨑 私は元々土地家屋調査士の仕事でしたが、趣味で骨董を収集、主に古銭と浮世絵を集めていました。浮世絵は色ごとに版木を作りますが、版木は桜の木でたくさんの板が必要です。私は日本に版木に使われるような太い桜の木はどのくらいあるのか知りたくなり、日本中の桜をあちこち見て歩いた。そのうち、そういえば私の地元の学校のそばに大きな桜の木があったなと気がついたのです。木登りはしたことはないが、白蛇がいたとか、いろいろ思い出もあった。

志木市の天然記念物第1号に指定

―それが長勝院の桜だったのですね。

尾﨑 以前はお寺があったのですが、昭和61年に取り壊され、木は残ったが周りは駐車場になり、切られるといううわさもありました。調べると、幹周り3m、高さ11mもある樹齢400年の古木で、当時私は志木市の文化財保護委員でしたので天然記念物指定の提案をしたがなかなか承認されませんでした。しかし、貴重な木であることは市役所もわかり、市の職員が県に話しをしてくれた。県が秩父にいた桜の専門家である守屋忠之さんを紹介してくれ、守屋さんが約3年間、木の枝送ったり来てもらったりして調べてくれたら、これは新種だと。この間志木市の天然記念物に指定、その後平成10年に植物学者の川崎哲也先生が「櫻の科学」誌に発表してくださり、「チョウショウイン・ハタザクラ」として認定されました。

「櫻の科学」誌
チョウショウイン・ハタザクラが紹介された「櫻の科学」誌

 

―ハタザクラという名は前からあったのですか。

尾﨑 東京に旗のような花弁が余分にある桜があり「ハタザクラ」の名はありましたが、それとは枝の分かれ方とか咲き始めの時期とか葉の大きさとか違います。

―山桜の一種ですから咲くのが遅いのですね。

尾﨑 普通の吉野桜が散ってから花が咲く。だから私達子どもの頃は小便桜と呼んでいた。なんでノロノロしているんだ、シミッタレから転じてションベンザクラです。

志木市のシンボル、市外には出さない

―それから長勝院ハタザクラは志木市のシンボルになります。

尾﨑 私が先頭に立って事業を興したんです。

―株分けで増やしたのですね。

尾﨑 枝を茨城県の結城市にある日本桜の会にお願いして挿し木をして増やしました。今は葉っぱからクローン技術でできるようになっています。

植樹したハタザクラ
植樹されたハタザクラ(元の桜の木のすぐ隣)

―ただ市外には出さないということなのですね。

尾﨑 市民の皆さんと議論して市外に出さないことにしました。私は河津桜のトップの方を訪ねてお話をうかがったのですが、失敗したと。木を発見した植木屋さんが苗を作って広げたので全国に広がってしまった。うちはこれで町興しをやろうと思っていたので、さいたま市さくら区に桜公園ができた時も、市長から一本ほしいと言われたが、お断りしました。

―今市内にどのくらいありますか。

尾﨑 200本くらいです。

―尾﨑さんは保存・啓蒙活動を続けてこられたのですね。

尾﨑 保存会があり、消毒、肥料、草刈り、枝落とし、見に来た人に説明するハタザクラガイドの養成、サクラまつりの開催、ハタザクラ新聞の発行など。今では木の手入れは市がやってくれています。

―いろいろな商品も出ました。

尾﨑 いっぱいありました。まんじゅう、最中、酒。ただ、当時やってくれた人は皆亡くなってしまいました。

 

長勝院一帯は柏の城という城跡

―尾﨑さんから見て、長勝院のハタザクラの意義、重要性は何かと考えられますか。

志木市柏の城跡
柳瀬川堤防から柏の城跡を望む(右前方)
柏の城跡説明板

尾﨑 やはり歴史の掘り起こしでしょう。ここ長勝院一帯は柏の城という城跡なんです。平安時代は田面長者藤原長勝の館でした。長勝には皐の前というきれいなお姫様がいた。皐の前と歌人であった在原業平の悲話*が「伊勢物語」にあります。その後、京都から道興准后(どうこう・じゅんこう、聖護院門跡)という坊さんが来て、姫をしのんでついてきた杖を土に刺して芽が出たのがハタザクラというお話があります。柏の城は、江戸時代になり、長勝の名をとって長勝院(新義真言宗、普光寺の末寺)というお寺になります。長勝院ハタザクラは在原業平伝説を今に伝えていると言えます。

*在原業平は東国に下ったおり長勝の館に滞在し皐の前と恋に落ち、ある夜館から逃げ出す。長勝は家来に捜索を命じ、広大な武蔵野の原を逃げる2人を探す。追っ手は窮余の策で野火をつける。猛火が迫った皐の前は「むさしのは今日はなやきそ若草の つまもこもれり我もこもれり」の一首を詠むと火は消えたが、家来に発見され館へ連れ戻された。2人が隠れていた場所は後に業平塚と呼ばれた(現在平林寺境内にある)。また、新座市の野火止の地名もちなんで生まれた。(志木市ホームページ「伝説・昔話」)

京都御所・紫宸殿の左近の桜

―杖から芽が出たという話はともかく、業平伝説からもハタザクラが京都に縁があるという可能性はありますね。

尾﨑 長勝は京都の公家の出身です。平安時代に業平、室町時代にも京都から道興准后が訪れています。2021年の朝日新聞の記事で、京都御所・紫宸殿の左近の桜も旗弁を持っているそうです。あるいは兄弟ではないかと考えるのもロマンです。

―ハタザクラに関しこれからは。

尾﨑 ハタザクラをどう残していくかがこれからの課題です。今、本体が弱りわきに出る小枝と成長が入れ替わっています。

―全国の桜の古木でご推薦はどれですか。

尾﨑 やはり歴史的に三春滝桜(福島県三春町)、根尾谷淡墨桜(岐阜県根尾村)、近辺では北本市の石戸蒲桜というのがあります。

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古銭と浮世絵を収集

―尾﨑さんは骨董に興味を持つようになったのはどうでしてですか。

尾﨑 私の家は志木の古い家で、古銭がいっぱいあった。私は勉強がきらいだったから夏休みの宿題で家にあった古いお金を並べて展示したらほめられて、それから古銭集めをするようになりました。金銀貨から始まって、四角い穴の開いたお金まで、約3000種類、3万点くらいありました。浮世絵は2000点くらい。

平成19年、65歳の時、川越に骨董店を開く

―骨董店はいつ開いたのですか。

尾﨑 平成19年です。家内や子どもたちは骨董に興味ないから処分しなければいけない。じゃあ、骨董屋をやろうかと都内の土地を探したが物件がなく、川越の元はやはり骨董屋だったこの建物が空いたので。60の時にやめようと思ったのですが、役職をいろいろやっていて後継を選任するのに5年かかり、65歳で店を開きました。

―それから16年。いかがですか。

尾﨑 楽しいですね。私は自分の持っているものもありますが、まず仕入れがあります。そこらに売っているものではない。それとある程度知識がないと。自分が買い集めている時と逆の立場です。いろいろな方が来て、中には偉い先生が来たり、芸能人が来たり。今までは土地を持っている人と不動産屋が相手でしたから、全然違う世界です。

尾崎古美術店の古銭
尾崎さんの骨董店で扱う古銭(右上は川越銀行発行の1円札)

―扱いは古銭が多いのですか。

尾﨑 いや。多いのはやきもの、刀剣など。

―では、仕入れもあるのですね。

尾﨑 どこかのお家で古いものがあるが片づけたいので買ってくれませんかと持ち込まれる、あるいは家族が集めたが亡くなったので処分したいとか。普通は骨董品の市場に買いに行くが、私は直取引です。

―今、おいくつですか。

尾﨑 昭和16年生まれ、82歳。あと何年できるかわかりません。

尾崎征男さん
尾﨑征男さん

 (取材2024年3月、「東上沿線物語」第6号=2007年10月掲載記事「現代の花咲か爺さん」岩瀬翠をベースに追加取材して作成しました)

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