東京で全国のトップを切って桜の開花が宣言されたのをはじめ、各地から桜の便りが届き始めた。今年は長きにわたった新型コロナの感染に伴う様々の規制がようやく一段落した後であり、国民の間に溜まっていたエネルギーが一気に発散されるのではないか。春はいつの世も国民の気持ちを明るく、華やいだものにしてくれるが、今年は格別なものになるだろう。
春といえば、わが国の民は春の到来を待ちわびる気持ちがことのほか強く、春を表す言葉が数えきれないほどある。万葉集を紐解けば一目瞭然。「回春」「春分」「春色」「惜春」などなど。「春水」「春陰」というのもある。国語学者にでも聞いてみないと分からないが、春という字を使って春を表す言葉は、控えめに見ても50や60はあるのではないか。
春という言葉を使わないで春を連想させるイメージする言葉も、数えきれない。「花冷え」「蠢動」「弥生」など。こちらもきりがない。俳句の季語に使うものも含めたら、いったいいくつあるのか。俳句をたしなむ友人に聞いたことがあるが、夏、秋を表す季語も、いずれも100を軽く超えるそうである。
季節を表す言葉が、わが国ではどうしてこんなにもあるのだろうか。最大の理由は、おそらく日本には春夏秋冬という四季が存在することにあるのではないか。それが四季折々の風情を醸し出し、美しい自然を描き出している。これほどの情景を私たちに提供してくれる国を、私は知らない。世界には1年中暑熱の国が多くある。年の大半を雪と氷に閉ざされる国もある。そうした国の民が、日本の自然の美しさに驚嘆し、羨ましがるのは当然かもしれない。
季節ごとに様々の顔をのぞかせる気象や自然環境が、日本人の国民性を長い年月をかけて形成してきたことは容易に想像できる。四季に裏付けされた日本語は、人にとてもやさしい言語だと思っている。今、国民を熱狂させているWBC(ワールド・ベースボール・クラッシック)では、試合に先立ち両チームの国の国家が演奏される。一国の言語を国歌で代表させるのはいかがだとは思うが、君が代が悠久の時間を刻むような、穏やかな色調であるのに対し、参加国の国歌には戦争の、戦の曲が多かったように思えた。これをどう読み取ったらいいのだろうか。
豊かな表現力を持つ日本語ではあるが、気になる点が随分ある。ここでは二点にとど留めて考えてみたい。ひとつは何でも丁寧語、尊敬語を使えば事足りる、無難だという傾向。このひと月ほど、テレビを見る機会が普段より多かった。その中で料理・食に関するものが随分目立ったが、女性講師の「○○を××させていただきます」という言い方には違和感があったし、うんざりした。「大根を煮ていただきます」といった具合である。こういう言い方をする人が多い。「いただきます」という丁寧な言葉を使えば、視聴者が納得すると考えたら、大間違いだろう。教養さえ疑われかねない、と認識した方がいい。
人格を持たない物に人格を持たせるような言葉遣いは今や完全に独り歩きし始め、あらゆる場面に登場するようになった。人格を持つ人に対しても。国会がいい例だろう。テレビ放映があることを意識しているからかどうか、大臣の答弁内容はさておき、口調は驚くほど叮嚀さにあふれている。この「・・・いただきます」の乱発は聞き苦しいほどである。この現象は、せんじ詰めれば日本語の乱れに行き着く。
気になるもう一点は、短略語・省略語のオンパレード。短略語・省略語には、例えば携帯、ラジカセ、パンプ、コネ、パソコンのように多くの人が使っていて、便利なものも多いが、いかがなものかと思わざるものも少なくない。代表例挙げれば「うま」と「まず」。「うま」は美味しいということだし、「まず」はまずいのこと。若者が本拠地だろうが、「すこ」(好きの意)や「メンブレ」(メンタルブレイクの略)は知らない人でも、「うま」「まず」は耳にしたことがあるのではないか。
問題は食という大事な事柄を、茶化すかのように表現すること。テレビ全盛の食に関する番組で、出来上がった料理を試食したゲストのほとんどが「美味しい」「うま」と表現すること。試食した料理がどんな味だったのかは視聴者が最も聞きたいところだろうが、自分の舌の経験と相談して的確にコメントするゲストの何と少ないことか。「うま」としか言えない人ばかりである。
このような「うま」「まず」に代表される言葉の流行を、どのように理解したらいいのだろうか。答えは一つ。日本人の知的レベルが低下しているから、と言ったら過言だろうか。言葉にはいろいろな意味、気持ち、主張などを表現できる役割があるが、ワンパターンな言葉からは新しい発想は出にくい。人を感動させることもできない。つまりは日本人の幼児化が進んでいる、ということではないか。
花見大介 :元大手経済紙記者、経済関係の団体勤務もある。近年は昭和史の勉強のかたわら、囲碁、絵画に親しむ。千葉県流山市在住