東京都小平市の住宅街、一橋大学小平国際キャンパス近く、玉川上水の流れに面して平櫛田中彫刻美術館が建つ。「鏡獅子」など迫真的な人物像で知られる、近代日本を代表する彫刻家、平櫛田中の邸宅と作品を公開する美術館である。田中は、百歳を超えてまで創作活動を続け、107歳の長寿を全うし、「六十七十ははなたれこぞう おとこざかりは百から百から」などの名言でも知られる。平櫛田中の作品と人物について、美術館学芸員の藤井明さんにお聞きした。
平櫛田中(ひらくし・でんちゅう) 近代の日本を代表する彫刻家。明治5年(1872)、現在の岡山県井原市生まれ。大阪に働きに出て人形師の中谷省古の仕事を見て造型に興味を持ち、手ほどきを受けた。25歳の時上京し、当時活躍していた有名な彫刻家、高村光雲(詩人・彫刻家の高村光太郎の父)の門下生になる。帝国芸術院に加わり、代表作「鏡獅子」をはじめとする多くの作品を発表した。日本彫刻会の会長であった岡倉天心に師事。昭和19年東京美術学校(現東京芸術大学)の教授に招かれ、多くの彫刻家を育成した。教え子には東京芸大の学長を務め東京スカイツリーの設計者でもある澄川喜一もいる。昭和37年文化勲章受章。昭和45年(1970)、98歳の時小平市に転居し、昭和54年、107歳で亡くなった。当時男性長寿日本一で、芸術家では世界最長命である。
一度粘土で型を作り、それを石膏から、木に写す技法
―平櫛田中の彫刻は木彫ですか。
藤井 木彫と、ブロンズ作品もあります。田中さんは、直接木を彫っていく直彫りではなく、一度粘土で型を作り、それを石膏に写し、それを星取り機という道具を使って木に写し取る方法で制作していました。元々西洋では大理石の彫刻を作る時に使われていた技法で明治の初め田中さんの兄弟子が木に応用してうまくいったので、それ以降急速に広まりましたた。
―田中の作品の特徴は何だと言ったらよいですか。
藤井 迫真的リアリズムと深い精神性 ということだと思います
一つは写実的な技法を追求した人なので真に迫る雰囲気を持っている一方で、仏教や東洋の古いお話などをテーマにした作品においては、頭の中で作り上げたイメージで、深い精神性を感じさせます。
―彩色した作品もあるのですね。
藤井 昭和6年に鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮白旗神社から依頼されて納めた源頼朝公の肖像が彩色をした最初で、それ以降田中作品に広く彩色が使われるようになりました。代表作「鏡獅子」も彩色しています。
―生涯何点くらい制作したのですか。
藤井 数えるのは難しいですが、500点から1000点くらいでしょうか。
―代表作についてご説明いただけますか。
「鏡獅子」
藤井 歌舞伎の「春興鏡獅子」を演ずる六代尾上菊五郎がモデルです。支援者が歌舞伎の大ファンでした。田中はポーズを決めるために、歌舞伎座に25日間通い詰めたそうです。作り始めたのが昭和11年ですが、戦争が始まり、芸大の教職も忙しくなり、しばらく中断していた。昭和27年に教職を辞めてから教え子たちが協力すると申し出て、制作が再開し完成は33年。着手してから22年かかっています。
―これは今どこにあるのですか。
藤井 国立劇場のロビーでご覧になれます
―大きさは。
藤井 台座を入れると2㍍50㌢くらい。結構大きいです。当美術館にあるのは4分の1のサイズです。
―色がきれいです。
藤井 日本画に使う岩絵の具という絵の具です。色を塗る前に全身に金箔を貼り、その上から模様を描いています。非常にぜいたくな作り方です。
「転生(てんしょう)」
藤井 うちにあるのはブロンズ彫刻ですが、東京芸大に元の木彫作品があります。鬼なんですが、田中さんの故郷に伝わる「生ぬるい人間は鬼も食わない」という話に基づいて作られていて、鬼が生ぬるい人間を一度口にするがあまりのまずさに吐き出してしまうという場面。口から出ている長いものは舌のように見えますが、そうではなく人間です。
「烏有(うゆう)先生」
藤井 うちには石膏の原型が置いてあります。江戸時代の終わりに田畑達三という剣の使い手がいたのですが、維新後落ちぶれていた。田中さんはその人柄が気に入ってモデルにしたのですが、タイトルのつけようがなくて、「いづく烏んぞ有らんや」(何でもない)という意味を込めてこの名にしたとのことです。
「気楽坊」
藤井 江戸時代の指人形です。後水尾天皇は、徳川秀忠の娘と政略結婚させられたことに不満で、「世の中は 気楽に暮らせ何ごとも 思えば思う 思わねばこそ」という歌をつくり、気楽坊と名づけた指人形を作らせて、日々のやるせない気持ちを慰めたといいます。これは人から求められることが多く、格好や彩色に様々な変化をもたせて数多く制作しています。
岡倉天心像
藤井 田中さんは、岡倉天心を尊敬していたので生涯にわたって数多くの像を制作しています。これは東京美術学校(現東京芸術大学)に設置した銅像の胸部です。
「五十鈴老母(いすずろうぼ)」
藤井 モデルは三重県伊勢市の餅屋「赤福」の女主人浜田満寿。近くを流れる五十鈴川のほとりに別荘があったことから、名付けられました。はじめは現地で制作していたが、お互いに高齢であったため、頭部だけ完成させ、残りは東京に戻り写真などを参考にして作ったといいます。昭和47年、田中さんが百才前後、彫刻としては最後の作品です。
―藤井さんは田中の作品のどのような点に感心しますか。
藤井 気をつけて見ていただきたいのは 木目が入った作品は、形に沿って木目がある。 こういう風に彫れば木目が入ると考えながら作っている。しかも一木。田中さんの作品はほとんど一木です。この作品を見るたび私はすごいと思います。
98歳で小平に家を新築
―高齢になってから小平に転居したのですね。
藤井 上京してから長いこと台東区で暮らしていたんですが、98歳の時、こちらの小平に移ってきます。近くを流れる玉川上水の景観が気に入ったからです。以来10年ほど家族と一緒に暮らして、昭和54年107歳で亡くなりました。
―家族も一緒だったのですか。
藤井 奥さんはその前に亡くなっていました。お嬢さんがリウマチで寝たきりで、台東区の家が病人を介護するのに不便だったことも転居の理由です。それと孫達も一緒でした。
―98歳で新たに家を建てたということですか。
藤井 アトリエも新しく作っています。今美術館の玄関のところにクスノキの大木の切り株がありますが、これは百歳の時20年後、30年後の制作のために準備した彫刻用原木です。
―百歳を超えても仕事をしていた。
藤井 非常に元気で頭もはっきりしていました。90代後半までは一人で奈良とか京都に出かけていました。百歳を超えてさすがに大きな作品は作れませんでしたが、書作に励んでいました。
―長寿の秘訣は何だったのでしょうか。
藤井 本人は特別なことはせず、元から丈夫だったと言っています。ただ、酒、タバコはやっていなかった。手を使っていたのでそれもよかったのではと思います。それと好奇心が旺盛で、早寝早起き。日が沈むと床について朝は夜更かしした家族が寝ようかなと思う頃に起きてきて新聞を読んだり本を読んだり。大変な読書家で亡くなった時3万冊くらい蔵書がありました。
―いろいろ面白い言葉を残しています。
藤井 昨年9月、『平櫛田中回顧談』(中央公論新社)が出ました。
昭和59年に田中の邸宅を公開するため開館
―この美術館はいつオープンしたのですか。
藤井 こちらは昭和59年に田中さんの邸宅を公開するため開館し、平成6年に木材置き場だったところに展示館を新築しました。展示館は1階で田中さんの作品、2階で田中さんが集めた美術工芸品、地下で「鏡獅子」の制作過程を主に展示しています。
―田中の作品は他はどこで見られますか。
藤井 平櫛田中の美術館は小平の他、郷里の岡山県井原にもあり、そちらは昭和44年に開館しています。それから東京芸大、国立博物館、近代美術館、岡山県立美術館などにも作品があります。 (取材2023年2月)