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三芳町に伝わる人形芝居「竹間沢車人形」 12月に公演

埼玉県三芳町に伝わる人形芝居「竹間沢車人形」の公演が2022年12月4日(日)、町内のコピスみよし(三芳町文化会館)で開かれます。車人形は1人で1体の人形を操る人形芝居で、現存するのは全国で3例だけで、埼玉県指定有形民俗文化財・三芳町指定無形民俗文化財に指定されています。今回の演目は「日高川入相花王恋闇路(ひだかがわいりあいざくらこいやみじ)―安珍・清姫悲恋物語」で、人形遣いは竹間沢車人形保存会(前田益夫会長)の皆さん、説経節は3代目若松若太夫が演じます。

竹間沢車人形公演チラシ

竹間沢車人形は、同町竹間沢の神楽師前田家に伝わり、江戸末期から明治にかけ盛んに興行が行われた後途絶えていましたが、1972年に復活。2002年からはコピスみよしを会場に毎年公演が開かれ、2020年、21年はコロナ禍で中止となっていました。今回は第19回を数えます。

当日の様子

車人形、保存会の活動などについて、保存会メンバーの前田早苗さんにお話をうかがうとともに、「東上沿線物語」第10号(2008年2月)記事「蘇る伝統芸能」を再掲します。

前田早苗さんに聞く

前田早苗さん

―車人形は前田益夫さん(保存会会長)が復活させたわけですが、早苗さんはご家族ですか。

前田 前田益夫は私の父にあたります。

―今保存会のメンバーは何人ですか。

前田 15人くらいです。

―どういう人たちですか。

前田 元々は地元で応援したいという人が一緒にやってくださっているのですが、町でも後継者育成も考えてくださっており、コピスみよしでの公演や小中学校での出前公演などを見て、いいなと思ってくれた方などが入ってくれて、最近は町外のメンバーもいます。

―けいこは。

前田 今は12月のコピスみよしでの公演などがありますので毎週やっています。

―難しさはどこにありますか。

前田 文楽なら3人で1つの人形を扱うので、頭、手、足とそれぞれ分担が分かれています。車人形は1人で全部やらなければいけない。人間と同じような動きに合わせて、すべてを操作しなければいけないところが大変ですね。

―文楽など他にない難しさがあるわけですね。

前田 文楽とほぼ同じ大きさの人形を1人で操る車人形は今全国に3団体しか継承されていないんです。

―これを続ける意義は何でしょうか。

前田 私達が守って伝えていくのは、大変ですが、メンバーの仲間も強いつながりになっていますし、舞台に出て皆さんから拍手をいただくのはやりがいを感じます。すべてがうまくからみ合って伝えていこうということでしょうか。

―お客さんに何を見てほしいですか。

前田 人形の操り方です。無機質な人形が人が使うと本当に動いているように見えるのが一番の売りかな。今回は大きな龍が出てくるんですが、龍と人形とのコラボも面白いと思います。

―前田益夫さんは今回も出演されますか。

前田 父は昭和10年生まれで今年87歳になります。三番叟(舞台を清める舞)を父がやるかもしれませんが今のところ未定です。2022年の3月には三芳町町制施行50周年記念式典で演じました。年はとりましたが、元々神楽師をやっているだけあり、見得とか間がすばらしいです。

―神楽もされる。

前田 里神楽です。元々前田家は車人形の家というより神楽師だったんです。神社で神様に踊りを伝える。そこへ人形芝居を持ってお嫁さんに来た人がいたから車人形が伝わった。神楽は今でも神社などでやっています。前田社中という名ですが、メンバーは車人形保存会とほぼ同じです。    (取材2022年10月)

こぴすみよしウェブサイト公演情報ページhttps://www.miyoshi-culture.jp/event/29575/


 

「東上沿線物語」第10号(2008年2月)より

蘇った伝統芸能 埼玉県有形民俗文化財・三芳町無形民俗文化財「竹間沢車人形」

車人形は、江戸時代天保年間(1830~1844)に、入間郡加治村(現飯能市)の西川古柳によって考えだされた人形芝居です。文楽人形が3人で1体の人形を操るのに対し、車人形は、操り手が轆轤車(ろくろぐるま)と呼ばれる車のついた箱に腰掛け、説教節にあわせて頭・手・足を1人で操ります。

竹間沢に車人形が伝えられたのは、竹間沢の神楽師・前田左吉(芸名は左近)のもとに、西多摩郡二宮村(現東京都あきるの市)の説教浄瑠璃6代目・薩摩若太夫の長女テイが嫁いできたことがきっかけとなりました。若太夫は人形芝居の座元であり、テイも自ら説教節を語ることができ、人形芝居道具一式をもって前田家に嫁入りし、人形芝居を伝えました。

「吉田三芳座」旗揚げと全盛期

前田家では左近が初代座元となり、テイが三味線を弾いて説教節を語り、親戚・縁者の操り手を加えて各地で興行しました。

明治19年、左近が亡くなると、左近の子、民部が2代目座元になり、ますます盛んになっていきました。興行は、入間郡を中心とした県内各地の他、群馬や千葉、神奈川県の江ノ島・鎌倉方面へも足を伸ばすなど、かなり広範囲で1年中休むことがなかったようです。

明治時代に人気を集めた車人形でしたが、大正時代になると、浪花節や新派劇、映画が大衆化し、車人形は次第に衰退していきました。こうした中、テイが亡くなった事も重なり、興行の灯は消えたのです。

50年の時を経て

最後の興行から50年後の昭和46年に、埼玉県教育委員会が実施した人形芝居緊急調査によって、前田家の納戸に眠っていたほこりまみれの箱の中から、車人形の芝居道具がほとんど欠損することなく発見されました。

この時、現当主の前田益夫氏には車人形に関しては何も伝承されておらず、車人形を演じたことがある民部の子、信次(益夫氏の父)と近(叔父)が存命だったことが何よりの幸いでした。信次は病気がちだったため、弟の近に車人形の盛んだった頃の話や操り方、説教節にいたるまで詳しく話を聞くことができたのです。すでに目が不自由になっていた近でしたが、まるで昨日の事のように記憶が鮮明でした。

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現代に語り継ぐ

昭和47年に再演されてから現在に至るまでを、4代目当主、前田益夫氏に伺いました。

前田益夫さん(2008年)

―益夫さんは全く演じたことがなかったんですか。

前田 そうです。生まれた時はすでに興行はやってなかったので、話には聞いていましたが人形自体見たことがなくて。ただ、小さい頃、轆轤車に乗って遊んだことはありましたけど。神楽の方は16歳の頃から舞ってました。車人形は、再演された昭和47年が私の初舞台なんです。

―50年ぶりに再演されるにあたって、演じたことのあるのは近さんだけだったわけですが、どのように指導していただいたのですか。

前田 叔父はその時すでに全盲になってたので、叔父の頭の中に残っていた記憶を基に、衣装や頭(かしら)、動きに至るまで事細かに再現する作業が大変でした。教育委員会の方が叔父の説教節を録音してくれまして、それに合わせて人形芝居をしたんです。竹間沢の人形芝居を復活させようと地元の池上喜雄も加わり練習を重ねました。台本も作りましたよ。叔父は再演の翌年に亡くなったので、最後の力を振り絞って私達に車人形を伝えてくれました。

車人形「小栗判官一代記」

―車人形の大変さは。

前田 1人で操るので、手や顔の動きはもちろん、頭の重さを支えながら車を動かし異動するので、体力が要りますね。

―再演からすでに30年が経っていますが。

前田 初めは中央公民館で上演し、ここ6年は「コピスみよし」という素晴しいホールができたので、12月に毎年恒例で出演させていただいています。車人形を伝承させたいと保存会もでき、保存会の皆さんのお陰でこうやって今も公演する事ができます。みんなで稽古していると、ああしようこうしようとアイディアも出てきますし、もっといいものにしたいという気持ちで頑張れます。やればやる程、芸の深さを知りますね。

―車人形は他の地域でも現在やっているところがありますか。

前田 今は、八王子と奥多摩とうち(三芳)だけかな。あと北海道の方であるとか。

―説教節も見事ですね。

前田 三代目若松若太夫さんという説教浄瑠璃を最も正しく伝承しているものとして、東京都無形文化財に認定された方です。日本口承芸能代表として海外公演もされ、絶賛されました。

―里神楽公演もされてるんですよね。

前田 以前ほど回数は多くはありませんが、神社の奉納や、昨年の8月には三芳町の歴史民族資料館で夜神楽公演をやりました。つい先日は結婚式に呼ばれて舞いました。また、最近では小学校や中学校での体験学習が増えています。

神楽五人囃子

―神楽面はご自分で彫っているのですか。

前田 そうです。好きなんでしょうね。現在全部で164あります。こういった日本の伝統芸能を若い世代に伝えていくことが私の使命と思っています。

神楽面

前田家と陰陽師

 数年前に映画やTVなどで『陰陽師』が取り上げられ話題になった。記憶にある人も大勢いるだろう。しかし、実のところ、いったいそれが何なのか詳しく知っている人は少ない。

陰陽師とは

陰陽師とは、古代日本の律令制下に於いて陰陽寮に属した官職の一つで、陰陽五行(全ての事象が陰陽と木・火・土・金・水の5要素の組み合わせによって成り立つ)の思想に基づいた陰陽道によって占筮及び地相などを行う技官として配置され、後には、占術・呪術・祭祀全般をつかさどるようになった職掌の事をいう。

平安時代に入り、身辺の被災や弔事が頻発したために悪霊におびえ続けた桓武天皇により、にわかに朝廷を中心に御霊信仰が広まった。平安時代中期には天文道・陰陽道・暦道すべてに精通した陰陽師である賀茂忠行・賀茂保憲親子やその弟子である安部清明らが輩出し、その存在はカリスマ的であった。安部家は公卿まで上りつめ、土御門家(地名から取った)を通名するようになり、朝廷・将軍からの支持を一手に集めた。

律令制の完全崩壊と豊臣秀吉の弾圧に伴い、陰陽師はその存在を喪失したものの、陰陽道は広く民間に流出し全国で数多くの民間陰陽師が活躍した。そのため、中世・近世において陰陽師という呼称は、私的依頼を受けて加持祈祷や占断などを行う民間陰陽師を指すようになった。

 江戸時代に入り、再び土御門家は江戸幕府から全国唯一の陰陽師を統括する特権を認められ、各地の陰陽師に対して免状の独占発行権を行使した。

神楽師と陰陽師

 前田家に現存する最も古い史料で、「天社御祈祷之符守礼陰陽道霊印」(享保2年)の中に、「松平大和守御家中前田筑前」という名がある。筑前とは、先に述べた前田左吉の父である。川越城主松平家のお抱え神楽師だった前田筑前宛てに、土御門家から数通もの許状が送られている。この事から、前田家の祖先は神楽師であると同時に陰陽師としての職掌にも就いていた。その筑前の子、左吉もその後を継ぎ、川越藩の祐筆を務めていたが、幕末に職を辞して御祈祷・神子神楽の免許状を藩から得て各地を巡業するようになった。徐々に西洋文化が導入され、明治政府による禁止令が出された以降は、公的行事においては陰陽道は見られなくなった。前田家においても、里神楽と車人形のみが代々、子孫に継承していかれた。

(2008年2月、担当:宮本一代、内容は掲載当時のものです)

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