NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」には、比企尼(ひきのあま)、比企能員(よしかず)など比企一族が多く登場する。北条氏との争いに敗れ、一族は滅亡したことになっている。ところが、川島町中山の田園地帯に建つ金剛寺を訪ねると、今に至る比企氏代々の墓が並んでいる。境内一帯は比企氏の館跡であるとの説もある。金剛寺の永井真也住職にお話をうかがった。
一族の祖の藤原遠光(波多野三郎)の館
―このお寺には比企氏の代々のお墓があるのですか。
永井 お墓を見ると一番古いのは比企則員(のりかず)と言って、安土桃山時代に活躍して江戸の初めに徳川家に仕えていた人です。則員以降の歴代のお墓があります。
ただ、それ以前から、比企氏の館は初めからここにあったようです。
寺に伝わる家系図によると比企一族は波多野(現在の神奈川県秦野)を本拠とした波多野氏の出です。一族の祖の藤原遠光(波多野三郎)は、源氏に仕えた関係で比企・入間・高麗3郡の守護に任じられました。10数年前、当寺の古い本堂を壊した時に、床下から陶器の破片が見つかった。埋蔵文化財の専門家の鑑定によると、遠光の時代に東海地方で焼かれたものとのこと。おそらく遠光が静岡のあたりから運んできたものではないか。遠光の時代から館は、ここにあった可能性が大きいと考えられます。
比企尼(ひきのあま)の館もここ
―比企尼(ひきのあま)の館もここであったということでしょうか。
永井 遠光の孫が遠宗(とおむね、掃部充=かもんのじょう)でその妻が比企尼です。遠宗は頼朝の父親である義朝に仕え、比企尼は頼朝が生まれた時に乳母になった。頼朝が伊豆に流されてから、遠宗夫妻はここ中山に住み、頼朝が旗揚げするまでめんどうをみたのだと考えられます。滑川町の三門館(みかどやかた)を比企尼の館とする説もありますが、城郭の専門家の調査では、三門館は能員(よしかず、比企尼の猶子、「鎌倉殿の13人」の一人)の時代より後の時代の構造のようです。
比企の乱で生き延びる
―比企氏は能員で滅びたとされていますが、その子孫の墓がここにあるということはどういうことなのでしょうか。
永井 比企一族は1203年のいわゆる比企の乱で滅びます。その時に助かった能員の子と孫がいました。1人は鎌倉に妙本寺を作った能本(よしもと)。乱の時2歳で助かった。阿波に流されましたが、成長し鎌倉に戻り日蓮聖人に出会い、先祖の供養のため比企氏屋敷跡に日蓮宗最初の寺として妙本寺を建てたのです。寺のあるところを、比企が住んでいたので比企ヶ谷(ひきがやつ)と言います。
生き残ったもう一人は時員(ときかず)の妻。乱の時、時員は自害するが奥さんが身ごもっていて、東松山の岩殿観音正法寺に逃げてきて住職にかくまわれて出産したのが員茂(かずしげ)。員茂は成長して北面の武士(上皇の身辺を警護する武士)になります。員茂は承久の乱の時順徳天皇に仕えており、天皇が佐渡に流されたのに及び御跡を慕って供奉、寺泊にとどまりました。天皇が亡くなったのを聞いて、また岩殿観音まで戻る。その時、子員長(かずなが)を連れてくる。員茂は岩殿で亡くなりますが、その後、員長はここ中山に住んだと家系図には書いてあります。
―なぜここに来たのでしょうか。。
永井 まったく関係もない場所に住むとは考えにくく、その前に祖先が当初からここにいたのではないかと思います。その時にお寺があったかどうかはわかりません。
―ここにお墓がある則員という人はどんな人ですか。
永井 松山城主上田氏に仕えた後、越前中納言結城秀康に奉仕。その後中山に引きこもっていたが、慶長18年(1613)家康に召し出されたといいます。天正年間、当山を中興開基しました。
比企氏35代までつながる
―それ以降、比企氏はつながっているのですか。
永井 はい。現在でも35代の方がいらっしゃいます。江戸の中ごろから戦後まもない頃までは、寺のすぐ前に屋敷があり、そこで医者を開業していました。
―苗字は。
永井 ずっと比企です。
濠跡がめぐる
―ここが比企氏の館跡であることを示す遺構のようなものはあるのですか。
永井 当寺の境内地は2500坪あり、農地解放前までは隣接の畑地約8町歩の広大な土地を有していました。濠跡もあります。私が小さいころは空濠がぐるり回っていました。平城だったと考えられます。
―寺の本尊は。
永井 本尊の阿弥陀如来は比企家の持仏で、鎌倉時代の作です。代々拝んでいました。
―今回のNHKの大河ドラマに比企氏が登場したことで反響はありましたか。
永井 あちこちに子孫の方がいます。今回のドラマを観て、訪ねて来られたり、問い合わせがあったり。「自分が比企だがルーツを知りたい」と。 (取材2022年7月)