前回は日本の電力産業に偉大な足跡を残した松永安左ヱ門(以下・安左ヱ門)が戦時中を過ごした柳瀬荘を紹介しました。安左ヱ門は、柳瀬荘で過すようになった少し前の時期から茶の湯に傾注し始め、財力を武器に名物とされた茶道具や茶会を飾る美術品を買い集めました。同時に先達の茶人に伍して茶事・茶席を頻繁に催して、短期間のうちに数寄者(すきしゃ)と呼ばれるようになりました。数寄者と言われてもピンとくる方は多くないと思います。そこで今回は、長くNHK大阪放送局で経済記者として活動し、関西の企業経営に関わる多くのテレビ番組を手掛け、現在は数寄者評論家として活躍されている大塚融(とおる)氏に数寄者についてお聞きしました。
数寄者とは
長谷川 最初に初歩的な質問をします。数寄者とはどの様な人を指しているのでしょうか。
大塚 困ったことに今の時代は数寄者と聞くと、エッチな人物と答える人が結構います。残念ながら私はそちらの方面は全く疎くて、お役に立ちません(笑)。
広辞苑で数寄者を引くと、「もの好きな人、風流な人、特に茶道を好む人」と書かれていますが、私が研究している数寄者は茶の湯を通じて美意識を競い合った企業経営者です。
茶の湯の世界で数寄者が登場したのは室町時代と言われています。近代の日本で彼らが再登場して社会的に注目されるようになったのは、明治時代の半ばころと言われています。その頃の日本は、日清戦争や日露戦争に勝利して国民が対外的な自信を持ち始めましたが、外国から色々な情報が入ってくるようになり、人々は欧米に流出した日本の美術品が欧米で高い評価を受けていることを知りました。1906(明治39)年に出版された岡倉天心の「茶の本」が欧米でベストセラーになったことも手伝って政財界人の間で茶の湯が流行し始めました。彼らにとって茶の湯は精神的な充足感を生み出す場としてでなく、人間関係を作る場であったことから縁が無かった企業経営者も茶の湯に参加するようになって多くの茶会が開催されました。
そうした中から茶の湯を自身の美意識を表現する場とする人々が登場しました。彼らは財界人の中でも識見の高い人々で、名物と呼ばれる高価な茶道具を買い揃え、有名な日本の美術工芸品を調度品に取り入れてた茶会を開いたりしました。彼らの活動は、敗戦による財閥解体に代表される資産家の没落とともに終焉してしまいましたが、茶の湯に取り組む彼らの姿が安土桃山時代に茶会に興じた数寄者と似ていることから関係者の間で「近代数寄者」と呼ばれるようになったのです。
ただ大阪を含めた西日本には茶の湯の伝統が根強く残っている地域があって近代数寄者のような派手さはありませんが、しっかりした美意識をもった数寄者を生み出しています。私が東京から大阪に転勤した1974(昭和49)年当時、大阪の企業経営者の間には茶の湯の伝統が生きていました。大阪でも老舗が集まっていた船場の経営者には、素養と伝統に裏打ちされた美意識をお持ちの方々が少なくありませんでした。そうした船場を中心にした関西の経営者との交流を通じて私なりに数寄者を定義すると、「本業とは別に芸や趣味に専門家に劣らない力量を持って、簡潔に美の世界を語り、作法の美しい人物で、かつ金銭のことを口にしない人物」と考えています。
数寄者が生まれた背景
長谷川 数寄者はどの様な背景から生まれたのでしょうか。
大塚 数寄者が生まれるためには、幼児期から豊かな人間性を持った人物が周辺に存在して、我慢強さを美に転化する環境を提供することが大切です。数寄者の中には子弟を幼児の頃から狂言を習わせ、舞台に立たせて人から見られる訓練を行った方もいます。人は他人から見られることを意識した時に自分の存在を自覚し、人から見られる経験を重ねることで美意識を形成していくのでしょう。
評価する9人の数寄者
長谷川 では、数寄者と呼ばれてきた方々の中で大塚さんが評価される方はどんなかたですか。
大塚 阪神間には数寄者と呼ばれた人が沢山いたので選ぶのが難しいのですが、直ぐに思い浮かぶ数寄者は次の9人です。
- 和田亮介(大阪船場の夜具地問屋の老舗の和田哲三代目社長で尺八・清元の名手、エッセイストとしても有名)
- 池長孟(神戸育英商業学校の校長で南蛮美術の蒐集家、池長美術館館長)
- 岡田利兵衛(老舗酒造業の当主でありながら俳文学者として名を成し、俳諧資料柿衛文庫設立、聖心女子大教授を歴任、兵庫県伊丹市長)
- 加賀正太郎(船場屈指の資産家。大山崎山荘を自ら設計作庭、関西の洋蘭栽培の草分けと成す。名門茨木カンツリーのコースの設計者、日本人最初のユングフラウ登頂者として日本山岳会名誉会員)
- 肥田皓三(大阪・島之内の旧家に生まれ、大阪庶民文化を幅広く研究して「なにわの生き字引」として知られる)
- 谷口豊三郎(東洋紡の経営者で日米繊維交渉を牽引する一方、私財を投じて内外の数学者や民族学の研究者を助成)
- 安宅英一(安宅産業の経営者で若手音楽家のパトロンとなり、東洋陶磁器を中心にした安宅コレクションでも知られる)
- 小澤新六(正絹問屋小澤屋の当主で独自の美意識をもって俳諧を嗜み、戦後の混乱期に押し花入りの日記を残す)
- 井口藤兵衛(船場の表具師井口古今堂の三代目当主で漢籍や古画の素養を積み、茶道の各流派に通じ、住友吉左衛門や藤田伝三郎など名家の仕事を多数手掛ける)
和田亮介氏
長谷川 この9人の中で大塚さんが最も評価している数寄者はどなたですか。
大 塚 何といっても和田亮介さんですね。和田さんは、島根県松江市にある旧家・八雲本陣の出身で大学を卒業した後、東洋レーヨン(後の東レ)に就職しました。その後、乞われて船場の夜具地卸「和田哲」の和田家に婿入りし、養父となった創業社長の和田哲夫氏から経営者の心得を厳しく指導されて和田哲の三代目社長に就任しました。和田さんは、養父からの指導もさることながら、ご自身が持って生まれた経営感覚が鋭く、繊維の街、大阪・船場を象徴する経営者となりました。私がお会いした沢山の経営者の中でも、和田さんのような書画に優れ、尺八・清元の名手で、文才があり、遊び心を心得た方は稀有で正に大阪を代表する数寄者でした。
和田さんが書く文章は、簡潔明瞭ですがウイットに富んでいて、本を読んだ後の満足感が高いのが特徴です。特に養父から伝授された経営者の心得をまとめた「扇子商法」は評判がよく、ベストセラーになりました。タイトルの「扇子商法」は、扇子は広げてもすぐに縮められるという意味から名付けられたものです。和田さんは養父の言葉をこう表現しています。
「暑い時にはいっぱい開いて使うけれども、いらん時には小さくたたんでおくやろ。経営もこれと一緒、(中略)ええ時はひろげ、わるい時はちぢめる。言ってみればわけないことやが、実はこいつがむずかしい」
先程言ったように、今の日本では「数寄者」と聞いて直ぐに理解できる人は多くありませんが、「通人(つうじん)」という言葉はまだ理解しやすいかも知れません。和田さんの実父である木幡吹月氏(十四代木幡久右衛門)は、名の知れた通人で通人の条件を書かれた本を出版されました。でも長い文章なので、「要旨を色紙一枚にまとめてほしい」と和田さんにお願いしたところ、実にみごとに要約を書いてくれました。
「文雅嗜み 酒食を愛し 一芸に秀で 洒落を解す 礼節正しく 容姿ダンディ 遊金に困らず 才智長け 尚間の抜けるところあるを要す」
どうです。分かり易いでしょう。この色紙を関西の経営者たちに見せたところ、「自分がどこまでこれらの項目に達しているか」と、大きな話題になりました。この和田さんの要約からも、数寄者と通人には共通するところが多いことが分かると思います。私は、両者とも強烈な美意識が裏付けにあるように感じるのですが、長谷川君はどう思いますか。
なぜ数寄者に注目したか
長谷川 私のような庶民からすると、数寄者や通人と呼ばれる人はそれなりに財産があって、趣味に対する支出に困らない遊び人のように思いますね。やはり私には縁がない世界かも知れません。話を進めましょう。私が大塚さんと最初にお目に掛かったのは東京のNHKで経済記者として活躍されていた時でした。
そうした大塚さんが大阪に行って数寄者に注目するようになったのはどうしてですか。
大塚 東京から大阪に転勤するまで大阪は商売ばかりの町だとかり思っていました。ところが大阪を代表する問屋街の船場で経営者の方々を取材し始めると、東京の企業経営者とは全く違う文化風土の中で仕事され、かつての船場には「数寄者の美」が生きていたことが段々に分かってきました。調べてみると、近代数寄者が登場した戦前期、船場やその周辺には庭山耕園や上田耕甫など東京ではあまり知られていませんが、船場の旦那衆から強い支持を受けていた絵師が住んでいました。
また船場には、絵師を支える表具師もいて絵師が描いた掛け軸、屏風、襖(ふすま)を見事な技で表装し、古くなった掛け軸や襖の表装し直しや修理もするという数寄者を支える環境がありました。表具師の代表が先に挙げた井口古今堂の三代井口目藤兵衛です。三代目藤兵衛は几帳面な方で、1910(明治43)年から1916(大正5)年までの日記帳「忘止錠」を残しました。日記帳には名家から預かった品物に関する情報が記載されていて、そのお陰で一般に公開されていない名家の美術品保有状況を知る手掛かりとなっています。また三代目藤兵衛は指先で墨絵を描く指頭画の達人でもあって、旦那衆に手ほどきしていたようです。
三代目藤兵衛の先代二代目井口藤兵衛も趣味人で、俳諧の師匠も務めて船場の旦那衆を門人にしていました。門人が読んだ俳句を添削した記録が沢山残されています。ここからも船場の旦那衆が商売一辺倒でなく、俳諧を嗜み、書画を愛でる美の世界の中で生きていたことが判るでしょう。
東京と大阪の違い
長谷川 東京の数寄者と大阪の数寄者に違いがありますか。違いがあるとすれば、違いはどこから生まれているのでしょう
大塚 大阪の数寄者がほぼ共通して茶の湯の心得があるのに対して、東京では茶の湯が経営者共通の嗜み(たしなみ)にはなっていないことが一番の違いだと思います。その背景は、東京が官庁や大企業に勤めるサラリーマン中心の社会なのに対して、大阪は船場を代表に自営業が多く、主人は日常的に社員の行動や発言に注意を配り、社員側も素養を身に付けるよう努力するするという社会風土の違いがあると思います。
もう少し説明しましょう。戦前の大阪では、船場、島之内、堂島に大店の旦那衆が自宅を構えていましたが、自宅は仕事場を兼ねているのが普通で、そこには丁稚奉公している小僧さんも住み込んでいました。旦那衆は、家の格を守り、丁稚たちに旦那としての品格を示すためにも、礼儀作法だけでなく素養を身に付け、茶の湯は勿論、俳句を嗜み、能、謡、義太夫などの芸事にも精を出すのが普通でした。同居している丁稚たちは、日々旦那に接しながら、仕事の仕方だけでなく生活態度や人との接し方、経営者に必要な素養を学びました。その輪が関西の人々に拡がって多くの数寄者が誕生させたと考えています。
その点、東京では茶の湯を嗜み、船場の旦那衆のような美意識をもった経営者は財界人の一部に止まり、官僚は美意識にほど遠い人たちです。また美術品に対する関りも大阪と東京では全く違っていました。大阪では旦那が趣味に合わせて自腹で美術品を購入して飾る場所にも気を遣うのが普通ですが、東京では企業が役員室に飾る美術品を購入するのは総務部の備品担当者が多いように思います。その結果、役員室の雰囲気と置かれている花瓶や壁の絵がマッチしていないことがよくありますね。
長谷川 備品担当者に美意識が身に付いていれば、そんなことが起きないということですね。確かにサラリーマンに美意識を求めるのは酷です。
大塚 数寄者でもしっかりした美意識を身に付けた人は、美術品の本質を直ぐに見抜いてしまいます。先程紹介した和田亮介さんと一緒にある作陶好きな企業経営者が作った作品を見に行ったことがありました。その時、和田さんは一言「素人芸ですな」と言ったきり、以降その経営者の話はしなくなりました。
白崎秀雄の評伝
長谷川 先程、大塚さんが言われた近代数寄者ですが、三井物産創設者の益田孝(鈍翁)、帝国蚕糸社長の原富太郎(三渓)、安左ヱ門(耳庵)の三人をその代表とすることが多いようです。この三人はいずれも戦前の財界人で活動した場所は東京とその周辺でした。三人が近代数寄者の代表と言われるようになったのは、多分、評伝作家の白崎秀雄が三人の評伝を書いたことに影響されているのではと想像しています。大塚さんはその白崎秀雄と親交があったと聞いていますが・・
大塚 私は以前から白崎さんが書いた各種の職人に関する評伝や古美術に関する評論をよく読んでいました。中でも大工道具の名工だった千代鶴是秀の生涯を綴った白崎さんの作品には圧倒されてしまい、今も道具職人に関する原稿依頼があっても手が出ない状態が続いています。
そうした白崎さんと私が交流し始めたのは、1988(昭和63)年、原三渓の評伝「三渓・原富太郎」が刊行された直後に感想を白崎さんに書き送ったのが切っ掛けでした。原三渓の評伝に対して私は「白崎さんが書いた三渓には血が流れていない」と率直な感想を送ったのですが、彼もそれを受け止めてくれました。
ちょうどその時、白崎さんは次作「耳庵・松永安左ヱ門」の執筆を開始されており、いろいろな疑問や悩みを私に寄せるようになりました。当時は今のような℮メールやスマホの無料電話が無い時代ですから、毎回長電話でやり取りしました。私の方から電話すると電話代が嵩んでしまい、よく女房から怒られました。「耳庵・松永安左ヱ門」については、本になる前の初稿も拝見しており、私なりの意見を申し上げた記憶があります。思い出しましたが、白崎さんは風貌が安左ヱ門によく似ていましたね。二人には共通する何かがあったのかも知れません。
松永安左ヱ門
長谷川 大塚さんの目から数寄者としての松永安左ヱ門をどの様に評価されていますか。
大塚 安左ヱ門には常人とは異なる突き抜けた美意識を持っているところに魅力を感じています。安左ヱ門と仲が良かった小林一三(逸翁)は主に大阪で仕事をした財界人ですが、彼が残した茶道具や美術品は計算し尽くされた教科書的なものが多くてあまり面白さを感じません。それに比べて安左エ門が残したものは、現在は国宝になっている釈迦金棺出現図など見事なものがある一方で首を傾げたくなる駄作もあって玉石混交です。電力事業の創成期に地方の電力会社を力ずくで吸収合併して日本有数の大電力会社を作り上げ、敵も多かった安左エ門の人柄を彷彿とさせます。
長谷川君も書いているように、安左ヱ門が茶の湯に傾注して名物茶道具や美術品を買い集めたのは60歳からで、それ以前に古美術品や古典に親しんでいた形跡はありません。したがって彼を数寄者の代表とすることに抵抗感を持つ向きがいるのも仕方ありません。それが益田鈍翁、原三渓に並ぶ近代数寄者の代表とされるようになったのは、白崎さんが「耳庵・松永安左ヱ門」を執筆したお陰だと思いますね。また白崎さんの本により安左ヱ門の人柄に陰影が加わり、彼の人間性も増幅されて今に伝えられていると言えるでしょう。同時に白崎さんが安左ヱ門を近代数寄者の代表に加えたことで、数寄者を評価する物差しの幅が広がったように思います。
現代の日本では数寄者がいなくなった
長谷川 現代の日本では数寄者がいなくなったという声がありますが、大塚さんはどう思いますか。
大塚 バブル期に日本人全体がお金儲けに浮足立って金銭のことを日常的に口にするようになって数寄者が生まれる社会的な環境が無くなってしまいました。
大阪では、太平洋戦争中に船場の数寄者を支えていた旦那衆が郊外に住居を移してしまい、戦後になると絵師や職人も時代の波に流されて後継ぎがいない人も多くなりました。幸いなことに私が大阪に転勤したのは、雰囲気が残る最後の時期でした。数寄者文化に止めを刺したのがバブルの発生と崩壊、その後に続いた株主重視の企業経営です。一連の流れにより、船場の町並みはすっかり変わってしまい、数寄者も影が薄くなってしまいました。その結果、数寄者の文化は美術館に展示されている茶道具や古美術品から想像するしか手立てが無くなってしまいました。
過去の数寄者たちから何を学ぶべきか
長谷川 最後の質問です。21世紀に入って大夫年月が過ぎた現在、私たちは過去の数寄者たちから何を学ぶべきでしょう。
大塚 数寄者の文化は旦那文化でもあり、儲かっている企業経営者のお遊びという色彩があるのは確かですが、彼らは今の政財界人が失ってしまった風格を持っていました。現代の社会には難しい問題が山積して人々の間に不安感が高まっています。これに立ち向かうリーダーたちには、私たちが安心して舵取りを任せられるよう数寄者が持っていた風格を身に付けてもらいたいと思いますね。
長谷川 今日は大塚さんから普段聞けない数寄者の話しをまとめてお聞きできました。有難うございます。大塚さんは、これまで沢山の企業経営者や文学者、美術家、職人と交流されてきました。機会を改めてお話をお聞きします。その節はよろしくお願いします。
長谷川清:全国地方銀行協会、松蔭大学経営文化学部教授を経て2018年4月から地域金融研究所主席研究員。研究テーマは地域産業、地域金融。「現場に行って、現物を見て、現実を知る」がモットー。和光市在住。