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「『鎌倉殿の13人』の時代に狭山市で起こった事」源義高と大姫の悲しい物語と史跡 

木曽義仲の子、義高は人質として鎌倉に送られるが、義仲が討たれたのに伴い殺される。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、義高とその許嫁となっていた頼朝の娘、大姫との悲話が描かれた。義高が殺されたのは、今の狭山市の入間川河原である。義高と大姫の物語、義高はなぜ狭山に逃げたのか、狭山市におけるその関連史跡は何が残っているなどについて、郷土史家(さやま市民大学同窓会歴史クラブ会長)の井口(いのくち)孝之さんにご説明いただいた(2022年6月狭山市博物館の常設展ガイドツァー「『鎌倉殿の13人』の時代に狭山市で起こった事」の内容の一部をまとめました)

今回はNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に登場する源義高を中心にお話したい。源(清水)義高は木曽義仲の嫡男であり、義高と源頼朝の子である大姫の悲しい物語がドラマで描かれています。

義仲の父、義賢は大蔵館で義朝の子義平に討たれる

河内源氏の系図(井口さん作成)

源氏は清和源氏といって清和天皇の皇子から始まりますが、いろいろな系統に分かれ、源為義は大坂の河内に本拠を持つ河内源氏の統領でした。その長男が源義朝、次男が源義賢(よしかた)。義朝は強い武将だったが荒くれ者で父親から嫌われて関東に追いやられ鎌倉に居を構えていました。一方義賢は皇太子の親衛隊の長官をやるほどできがよかった。義朝は跡目に不安を感じ、義賢が嵐山の大蔵館にいたのを、長男の源義平(悪源太義平と呼ばれる、頼朝の兄)に急襲させ義賢を討ってしまいます。その時、義賢には2歳の駒王丸という子がいて、義平は子どもを探し出して殺してしまえと地元の武士に命じて鎌倉に引き上げます。命じられたのが斎藤実盛、畠山重能(重忠の父)。駒王丸を見つけるが、可哀想だと、こっそり逃がし、木曽の中原兼遠に助けられ、大きくなったのが木曽義仲です。

ですから、木曽義仲は「木曽」とついているのは元服したのが木曽だったからで、源氏であり、埼玉生まれということになります。

義朝と義平は平治の乱で平清盛に破れて処刑されてしまいます。頼朝はまだ子どもだからと見逃され伊豆に流される。

義仲は嫡男の義高を鎌倉に人質に出す

こうして今度は頼朝と義仲が平家打倒の兵を挙げます。頼朝はドラマでも描かれたように、嫡流だということで義仲に自分の側に入れと言いますが、義仲にすると父親を殺されていますから到底入れない。両者は戦寸前までにらみ合いますが、結局平家打倒の目的の前に源氏同士争っていても仕方がないと誓い、義仲は嫡男の義高を鎌倉に人質に出す。そして別々に平家をやっつけようと。頼朝はそれではと、義高を娘の大姫の婿として迎えます。

ドラマでは義高は市川染五郎が演じる青年として出てきましたが、実際はこの時義高は11歳。今なら小学校6年生。大姫は6歳でした。

清水冠者は女房の姿に扮して、大姫の女房たちにかこまれて逃げ出した

鎌倉時代の公式文書「吾妻鏡」では、義高がどう書かれているか。

最初に義高が登場するのは、義仲が討たれ、清水冠者(義高)が殺されそうになり鎌倉から脱出する場面。寿永3年(1184)、4月21日、武衛(頼朝)は、義高は父親も祖父も殺された、何を考えるかわからないから殺してしまえと指示。大姫の女房がそれを漏れ聞いて注進、清水冠者は女房の姿に扮して、大姫の女房たちにかこまれて逃げ出した。その時従者の海野小太郎は姿格も似ているので夜はふとんの中に紛れ込み義高が寝ているようごまかし、夜が明けると、清水冠者が好んでいた双六を二人でやっているふりをした。殿中は、それでまだ義高がいるとだまされた。晩になりばれて、頼朝は怒り、堀親家に、方々の道を追いかけさせます。姫君はあわてふためいて魂が抜けてしまいます。

これが義高が出てくる場面です。日記とはいえ、非常にドラマチックで、ドラマでも描けばよかったなと思います。

寿永3年(1184)、4月26日 義高死す

4日後の4月26日には、堀親家の家来の藤内光澄が、義高を入間川河原で討ったと報告に参上。大姫も御台所(政子)も嘆き悲しみます。5月1日になると清水冠者の関係者が謀反のたくらみをしているとのうわさが流れ、各武将が信濃、甲斐に向かう。5月2日には諸国の御家人に清水冠者を討ったという知らせが届き、御家人は頼朝に忠誠を誓うために鎌倉に飛んできます。

2ヶ月後の6月27日藤内光澄が首をはねられます。大姫が病床に伏し、御台所が激怒して、頼朝はその怒りから逃れられず、藤内の首をはねろと命じたのです。藤内は気の毒です。手柄を立てたと思ったら首をはねられた。

6年後の正月、それまでの事件の棚おろしの記事で「朝日冠者」と出てくる。義仲は後白河法皇に征夷大将軍を願いますが、かなえられず朝日将軍を自称、その子なので朝日冠者です。

11年後、大姫が病気になります。清水冠者のことから立ち直れないのです。頼朝がいろいろな縁談を持ち込むが全部はねつける。ドラマでは義仲の愛妾で和田義盛の妻になっている巴御前に相談したら「生き残った者は前を向いていくしかない」と励まされ、それじゃと前にと頼朝が持ってきた天皇に入内する話に乗り、京都へ行ったら、後白河法皇の丹後局にコテンパンに言われ、しょげかえり、20歳で未婚のまま亡くなります。

同じ年、御台所がお彼岸ということで、いろんな仏事をこなし、8月8日に清水冠者のために盛大な仏事を行い、それに対し聴衆が嗚咽したと書かれています。

吾妻鏡の記述は以上です。これから大姫と清水義高がどういう関係だったかわかります。

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 義高は義仲が旗揚げした上田の丸子へ向かった

義高はなぜ現在の狭山市方面に逃げたのでしょうか。

義高が人質になって鎌倉に行くのが決まったのは、義仲が現在の上田市の丸子で旗揚げをした時です。義仲が育ててもらった木曽の中原兼遠は勢力が小さく、丸子の依田氏は父親の義賢の妹が嫁ぎ北信濃に勢力がありました。義仲が赴くと依田氏はすぐに城を明け渡し、義仲は旗揚げします。義高は上田から高崎までは善光寺道、高崎からは鎌倉街道上道、狭山市を通って鎌倉へ行き人質になります。脱出した義高は11歳の子どもで、右も左もわかりません。一番可能性があるのは来た道を帰ること。丸子には依田一族が健在、そっちに逃げていけば何とかなると考えたのではないか。

おじいさんの義賢が討たれたのが嵐山の大蔵館であり、鎌倉街道沿いの嵐山を目指したという説もありますが、当時は既に館は残っていません。義高は鎌倉に向かう際に嵐山を通ってはいるが、当時は何もなかった。狭山市を人質に行く時も通り、上田に向かう時も通り、入間川は長い河原で身を隠すところがなく見つかってしまったのだと思います。

義高と大姫の物語は、室町から江戸時代にかけていろいろな形で出されています。

奈良絵入りの絵草紙(絵本)で「清水冠者」というのがある。挿絵が奈良絵できれいです。江戸時代歌舞伎の演目でも取り上げられています。

奈良絵草紙

歌舞伎錦絵

狭山市の関連史跡 清水八幡と影隠地蔵

現在の狭山市には、入間河原で義高が討たれたことに関わる史跡として清水八幡宮と影隠地蔵が残っています。清水八幡はこの辺で義高が討たれ、土地の人達が弔い、北条政子が清水八幡を建てた。それは洪水で流され、後に地元で再び建てたというものです。

影隠地蔵は、義高がいったんこの地蔵の影に隠れて追っ手から逃れたという伝説が地域にあります。

清水八幡と影隠地蔵とについては江戸時代に幕府の命で作られた「新編武蔵風土記稿」に、記述があります。入間川村に八丁の渡しという場所があった。今の清水八幡の場所です。入間川には橋がなく、歩いて渡っていた。8丁(町)という長い渡し。今の清水八幡あたりで川に下り、歩きやすいところを斜めに歩いて向こう岸に上がったのが今の新富士見橋のところ。そのあたりで義高が討たれた。義高の首は藤内の家来が鎌倉に持ち帰りますが、土地の人達が残った体を埋葬してそこにケヤキの木を植えて祀った。そこに平(北条)政子が清水八幡を建立した。しかし応永年間の洪水で全部流された。この来歴を刻んである石碑が今の清水八幡の本殿の中にあります。

清水八幡

清水八幡境内にある義高終焉の地の案内板

影隠地蔵について、私は歴史を勉強し始めた頃、影隠地蔵を見て、小さい石の地蔵さんで、子どもとは言え、この影に本当に隠れたのかと思いましたが、調べていくとそうではありません。上広瀬村に正覚院(しょうがくいん)という寺があり、境内の地蔵堂に長さ2尺ばかりの木造の地蔵さんが入っていた。土人(土地の人)はこれを影隠地蔵と呼んでいた。元々は上広瀬村の北東の方向、柏原との境で鎌倉街道沿いにあり、義高が逃げた時ここに隠れ、いったんは助かった。今は小さい石の地蔵だが、江戸以前は御堂だった。 それなら隠れることができるわけです。明治になり修験道が禁止されて正覚院という寺もなくなり、それで土地の人が石の地蔵を作り、以前あったところに祀ったのが現在の影隠地蔵です。

影隠地蔵

井口さん

井口孝之さんホームページ 「多夢吐夢」

ブログ 「四季歩のつれづれ」

嵐山散歩記事「菅谷館ら大蔵館へ」

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