比企尼(ひきのあま)は伊豆に流された源頼朝を20年間にわたり世話をし、鎌倉幕府設立のカゲの立役者となった。尼の子どもたちは、時の政権内外で目覚ましい活躍をした。しかし北条氏との争いに敗れ、その後の比企氏は歴史に埋もれてしまった。ところが、来年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に比企氏も登場することになり、比企氏が注目を浴びつつある。
比企氏は比企の乱(変、1203)で一族が滅ぼされ、途絶えたことになっているが、現在の滑川町和泉三門にあった比企遠宗の館(三門館)に800年にわたり住み続け、伝承を伝えてきた比企氏の末裔(齊藤家)がいる。同家の齊藤和枝さん、喜久江さん姉妹は、2021年10月、NPO法人 グリーンライフ・サポートクラブ主催の講演会「鎌倉幕府の立役者 埼玉ゆかりの比企一族の館と鎌倉殿の歴史」で「比企一族末裔の語る遠宗館跡」と題して講演した。
(以下の記事は、講演内容、齊藤姉妹が書かれた『比企遠宗の館跡』(まつやま書房)、ホームページ記事などを元に作成しました)
埼玉県の比企郡滑川町和泉にある三門館(みかどやかた)は源頼朝の乳母比企尼とその夫の掃部允(かもんじょう)遠宗が住んでいた館でした。遠宗は武蔵国比企郡の郡司でした。源義朝の命令で比企郡和泉の三門に館を建てました。
三門館跡遠景(滑川町提供)
なぜ和泉に三門館を建てたのか
三門館はなぜ和泉に建てられたのでしょうか。比企遠宗は主君と仰ぐ義朝からその弟の義賢の勢力拡大を抑えるために和泉三門に館を構えたと聞いています。比企遠宗は比企郡の郡司でした。郡司の館は、遠宗以前は野本の古凍(ふるごおり、現在の東松山市)にあったように聞きますが、定かではありません。和泉は比企丘陵の北部に位置し、丘と丘の間に谷津があり、耕作ができ住みやすいことが豪族の館を構える条件にかなったと考えられます。和泉の近辺には古墳が多くあり、遠宗が館を構える以前から、この地方は開けていたと考えられます。
京へ上る
伝承によると、三門に館を構えた後、義朝が京へ上り、遠宗夫婦も命じられて後を追って京へ上り、遠宗夫婦に男の子が生まれました(朝宗)。義朝にも男の子(頼朝)が生まれ、遠宗夫婦はその子の乳父母になりました。遠宗の妻は後の比企尼です。比企尼は齊藤別当実盛の妹という伝承があります。
頼朝伊豆に配流
義朝は平治の乱で敗北、東国に落ちていく途中、尾張国野間に立ち寄り、長田忠致親子に裏切られ、入浴しているところを謀殺されます。頼朝は伊豆に配流の身となりました。
「吾妻鏡」寿永元年(1182)10月17日条に次のような記載がある
「・・・永暦元年(1160)、豆州に御遠行の時、忠節を存ずるの余りに、武蔵国比企郡をもって請所となし、夫掃部充(遠宗のこと)を相具す。夫掃部充下向し、治承4年(1180)の秋に至るまで20年の間、御世途を訪ひたてまつる・・・」
ここで、「忠節を存ずるの余りに、武蔵国比企郡をもって請所となし」とは、平清盛が、遠宗の頼朝に対する忠義心に深く感心し、比企郡にある平家の荘園の請所にしてくれたと理解できます。平治の乱後、武蔵国は清盛の知行国でした。
遠宗夫婦は三門館に帰り、その後20年間、伊豆にいる頼朝に米や物資を送り続け、一族総出で援助してきました。
「比企の乱」で比企氏は謀殺される
比企氏は建仁3年9月(1203)に北条氏による「比企の乱」で滅ぼされたと言われています。しかし、和泉の三門に滅ぼされていない者がいたのです。
以下、「吾妻鏡」の記述
建久10年(1199)、頼朝が死去、頼家が18歳で家督を継ぎますが、有力御家人13人の合議制になります。その1人が、比企遠宗夫婦の猶子(甥)で頼家の乳母夫である比企能員(よしかず)でした。比企尼が甥の能員を猶子として頼朝に推薦したことによるといいます。能員の娘の若狭が頼家の妻となり、子一幡を生みます。能員は将軍家の外戚として権勢を強めます。
建仁3年7月3日、頼家は病に倒れます。弟の千満(実朝)、嫡男の一幡がそれぞれ関西、関東の地頭職に任ぜられます。
9月2日、能員は頼家に北条時政を討つように進言し、頼家はこれを承諾。母の政子が盗み聞きしていて時政に知らせます。時政は仏事にことよせ能員を屋敷に招き入れ謀殺します。政子は比企氏討伐を命じ、一族は自決して果てました。
頼家は修善寺に流され、北条氏に殺されます。
以上が、いわゆる「比企の乱」(比企氏は反乱したのではなく謀殺されたので「比企の変」の方がふさわしい)の顛末です。
比企の本領地は朝宗の子孫が継いだ
比企の変で、比企能員は北条氏に殺されました。これで比企一族は滅びたとされていますが、比企郡の本領に住む比企氏は絶えていません。遠宗には猶子の能員の他に総領の朝宗(ともむね)、藤二という息子があり、「吾妻鏡」の記述では、比企朝宗の名は被害者の中に入っていません。比企の本領地は朝宗の子孫が継いだと考えられます。
比企氏系図(『比企遠宗の館跡』より)
子孫は800年もの長い間、遠宗の館(三門館)に住み続ける
歴史の表舞台からこそ消え去りましたが、その子孫は、先祖が残してくれた土地と家を守り、その後800年もの長い間、遠宗の館(三門館)に住み続けてきました。
「福田村郷土史および「大日本国誌 武蔵国 第12巻」
「三門館」の存在は古くから歴史書にも触れられ、明治以降も「福田村郷土史」や「大日本国誌」などによりその存在は知られていました。「三門館」は旧福田村和泉というところにありました。明治時代の終り頃、福田村の神山熊蔵という方の書いた「三門古城址」について『福田村郷土史』に記述があります。
三門館北側の切通し(滑川町提供)
また『大日本國誌 武蔵国 第12巻』に「泉城址」として「比企郡和泉村ノ北字三門ニアリ・・・」とある。「南は壱町三拾六間、北は壱町三拾四間」の濠址があったというから結構な広さでした。ここから西に少し行ったところに泉福寺があります。
このように、三門に古城址があったということが明治政府の調査で確認されています。ただ、館が遠宗の館を引き継いでいるということは最近まで明確にされていませんでした。それは徳川幕府の家取り潰し政策を受け先祖の名を口にすべからずとのお達しを受けて公にすることは差し控えてきたからです。先祖に関する言い伝えは代々長男にだけ口伝で伝えられてきたそうです。
昭和6年貰い火で、母屋、土蔵、下家などすべて焼失
和泉の「三門館」跡に800年も続いてきた家が、私達の実家です。伝承では、家の先祖は、頼朝に米を送り続けた比企遠宗夫妻と聞いています。「比企の変」以降戦乱期をどう生き抜いたか記録も伝承もありません。恐らく豊臣秀吉の時代、当家は農民となり、徳川様の時代に「比企」の名を使うなと言われ、「齊藤」を名乗るようになりました。この家で生まれた最後の当主が私達の父です。この家は村の重要文化財として指定する動きもあったそうですが、あまりに古くて見送られたと聞いています。昭和6年貰い火で、母屋、土蔵、下家などすべて焼失してしまいました。仏壇にあった位牌や過去帳などを外に出したが、紛失してしまったといいます。
火事で焼ける前の館の特徴は以下のようなものであったと、この家に住んでいた叔母から聞いています。どっしりとした茅葺屋根でひさしが深かった。大黒柱は丸太のままで、一抱えもあって、手斧(手斧)削りの痕が黒々とした美しい光沢を見せていたそうです。梁や土台には「じだんぼ」の木が使われていた。家の間口は九間半、奥行きは六間半、間取りは六部屋。昔は畳を敷かなかったので、畳の寸法が合わなかった。床の間付きの座敷が二間あり、一つには外に逃げ出せる抜け道があり、奥の床の間付き座敷のさらに奥に切腹の間があった。座敷の周りに縁側が廻っていた。母屋の前には大きな梅の古木があったが、熱風で枯れた。坪山のヒバの木は残り、今も元気である。
泉福寺
三門館とは田んぼを隔てた西側に泉福寺があります。当家の菩提寺で、先祖は寺の大旦那であり僧侶であったようです。昔は天台宗でしたが徳川様の時代に、真言宗のお寺として生まれ変わりました。
泉福寺(齊藤さん提供)
和泉にある泉福寺は足立郡川田谷(桶川市)の泉福寺と深い関係があると聞いています。川田谷の泉福寺は天長6年(829)惇和天皇の勅願により慈覚大師円仁が開山しました。平安末期の源平の乱で戦火を被り、壊滅の悲運に見舞われていました。源義朝、比企遠宗等は川田谷の焦土に野ざらしにされるのを勿体ないことと思い、菊のご紋や阿弥陀仏を和泉に移したようです。和泉の泉福寺に菊のご紋が掲げられているのはそのためと考えられます。
和泉の泉福寺の開山は、「新編武蔵風土記稿」には詳らかならずとありますが、滑川村史によると泉福寺には住職の世代帳があり、開山は建久元年(1190)、僧(海伝)によるとあります。本尊阿弥陀如来は国指定の重要文化財、脇侍の「観音菩薩」、「勢至菩薩」の二尊は県指定有形文化財です。
享保年中(1716~1736)、「慈覚大師御作阿弥陀如来三尊」を修造の時、阿弥陀如来像の体内に墨書銘のあることが判明し、墨書銘には建長6年(1254)5月この阿弥陀三尊を修復したことが記されていた。施主の「大檀那沙弥西願同御芳縁源氏所生公達」が現世安穏と後生浄土を願い、合わせ父母の霊を祀ったことが書かれていた。「御芳縁源氏所生公達」とは源氏に縁のある女性とその子供を意味しているようです。遠宗には源氏に縁のある子孫が大勢いるので、施主は遠宗に縁ある人ではないかと推測します。
泉福寺の境内には源氏の守護神の八幡神社が祀られていました。その後泉福寺は栄え三重塔が建ち、物日には多くの人達がお参りに来られたそうです。
ホームページ 「比企遠宗と比企尼の館」 http://hikinoama.com/
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