純農村地帯だった東上沿線に宅地化の波が押し寄せたのが昭和30年代である。その象徴ともいえるのが「団地」だ。それは人間だけでなく、都会のライフスタイルを東上沿線に持ち込んだ。今回は東上線の団地進出の様子を追ってみよう。
●公団団地の進出
東上沿線でわれわれがイメージする団地の、もっとも古い例として、昭和32年4月、鶴瀬駅西口から5百メートルのところに完成した富士見団地があげられる。開発・販売は東武鉄道、敷地は60から90坪弱まで、38戸からなる一戸建住宅団地だ。最多価格帯は80万円前後と当時としては高額なため、庶民には手が届かなかった。どうやら、戸建分譲団地は時期尚早だったようだ。
同年11月、富士見団地に隣接し、日本住宅公団による東上沿線初の団地、鶴瀬第一団地が完成。こちらは鉄筋2階建てテラスハウスが228戸、1戸当たり13坪で家賃5千円と、サラリーマンにも手の届くものだった。夏になるとショートパンツ姿で歩く団地夫人に、地元の農家の人たちが目を丸くしたというのは、有名なエピソードだ。
昭和34年6月には上福岡駅西側に霞ヶ丘団地、35年7月には戦前の火工廠跡地に上野台団地が完成。双方合わせると3千8百世帯以上という大規模団地だ。昭和30年当時8千人だった福岡村の人口は、昭和35年には2倍を越す1万7千人に膨らむ。もちろん、その増加分のほとんどが団地住民だった。
昭和35年には朝霞駅北口に公団東朝霞団地(435戸)、昭和37年には鶴瀬第二団地(8百戸)が完成し、ここに昭和30年代の東上沿線公団団地が勢ぞろいした。
これら公団住宅は戸当たり15坪未満がほとんどで、今からみれば狭小だが、鉄筋コンクリート造りで、台所にはガスコンロ、さらに風呂付で水洗トイレというのは、当時としてはまさに「夢の住宅」だった。
●戸建て分譲住宅の先兵・長瀬第一団地
ここまで述べた公団の団地はいずれも賃貸住宅である。しかし昭和30年代後半、高度経済成長とともに年間10%以上という賃金上昇が続くと、一般勤労者もマイホームを現実のものと考えるようになり、東上沿線にも大規模な戸建・分譲という住宅団地が本格的に進出することとなる。
それは、当時宅地開発など無縁と思われていた越生線の武州長瀬駅周辺で始まった。昭和36年、東京ハウスという都内の不動産会社が、駅北側の畑地で宅地開発を始めたのだ。翌年2月には60戸の家が完成し、最終的に千戸もの建売住宅が建設された。現在の長瀬第一団地である。
20坪の土地に7坪の平屋で、ローン付き45万円という値段で、中小企業のサラリーマンや工場労働者にも手の届くものだった。当時の日本における平均民間年間給与が33万4千円(国税庁・民間給与実態統計調査)だから、分譲価格は給与所得の1.3倍ほど、さらに毎年10%以上所得が増えていた時代だ。さしたる負担もなくマイホームを手にすることができたのである。
長瀬第一団地建設から47年を経た現在、ほとんどの家屋が建て直されているが、今も創建当初の住宅がわずかに残る。床面積7坪という今からは考えられないほどの狭小住宅で、外観も下見張板の外壁にスレート瓦の屋根という、まことにつつましいものだが、それまで不動産など無縁と考えていた労働者階級が、初めて手にしたマイホームとして、たとえ1戸でも復原保存しておく価値はあると思う。
次号では、こうした沿線団地の変遷を追ってみたい。
(本記事は「東上沿線物語」第25号=2009年9・10月に掲載したものを2021年9月に再掲載しました)
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