川越街道が完備するのは、松平信綱・輝綱の時期で、平林寺が岩槻から新座の現在地に移転するのとほぼ同じ頃である。この街道の里程については、榎本弥右衛門の『萬之覚』に川越藩主松平輝綱(信綱の孫)が1655年に距離を測った記録が記されている。
「江戸日本橋より川越御城大手まで十一里一丁」とある。1780年大橋方長拼による『武蔵演路』によると十里二十町とある。また、1870(明治3)年に開示された伊能忠敬の『大日本実測図』によると、十里三十四町三十三間半とあって、概略10里から11里程度であることがわかる。
俗に〝九里より(四里)うまい十三里〟といわれる川越芋と関係づけた13里という里程は少し長く、語呂合わせによるものであろう。
上板橋(板橋区)
板橋の地名は、源頼朝が1180年に伊豆で挙兵したが、石橋山で敗れ房総へと逃れ、やがて武蔵国に入って鎌倉目指して進む際に、豊島の滝野川に陣をとったことが『源平盛衰記』にでてくる。また、『義経記』によると、奥州平泉から義経が滝野川の板橋の陣に馳せ参じたが、前々日に頼朝はこの地を去っていた。
このように平安末期からすでに、板橋の地名は存在していた。地名発祥の由来について確かな資料はないが、石神井川に架けられた橋によるものといわれている。
この石神井川は、武蔵野台地の中央に湧く「三宝寺池」と「石神井池」を源とするもので、武蔵野の原野を開折して流れるが、川を渡る人々は苦労したことが察せられる。あるときは泳ぎ、胸まで浸かって川を渡り、またあるときは危険な丸木橋を渡っていたのであろう。林の木陰にふと見えた「板の橋」があったことから、人々の口の端にのぼり、この地名の発祥になったともいわれている。
ところで川越街道の出発点である上板橋はどんな宿場であったのであろうか。その概要を各宿ごとに述べることにする。
日本橋から2里半で、1823年で90戸あまりの宿で伝馬の継ぎ立てを行っていた。したがって一般の旅客も少なく、宿としての経営は苦しかった。そこで1806年には、継ぎ立て困難なために10ヵ年の貸付金が幕府から下付された記録がある。
この宿は、上宿・中宿・下宿の三宿に分かれており、旅人のための休み茶屋などが設けられていた。中宿には名主河原与右衛門が問屋場を兼ね、その向かいには旗本の代官屋敷があった。今やその建物は跡形もなく、旧宿一帯は、ビルの乱立する密集街となっていて、その変貌ぶりは目をみはるものがある。
(川越市文化財保護審議会会長=当時)
(「東上沿線物語」第23号=2009年5月に掲載した記事を2021年5月再掲しました)
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