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川越の観光地化に一役 地域特産「川越いも」による町づくり「川越いも友の会」が保存と普及をリード

川越が観光地化し多くの人が集まるようになった。人を呼ぶ地域の資源としては、蔵造りの町並みなど歴史的建造物の存在が大きいが、もう一つ、「川越いも」がある。地域特産のサツマイモのイメージが向上し、関連商品も増加している。「川越いも」の保存と普及を主導してきたのは、市民文化運動グループの「川越いも友の会」だ。今年12月には、蔵造りの町一番街に「サツマイモまんが資料館」を開設する。同会を立ち上げ、今も事務局長を務める山田英次さんに、「川越いも」の特徴、会の歩みなどについてうかがった。

山田英次(やまだ・えいじ)

サン文化企画研究所代表(企画実践コンサルタント)。いも文化研究家。イラストレーター。 1952年川越生まれ。川越市役所に勤務後、サツマイモ資料館館長、(株)埼玉種畜牧場サイボクハム企画室長など。所属は、川越いも友の会事務局長、川越サツマイモ商品振興会事務局、日本いも類研究会役員、さつまいもカンパニー(株)顧問など。 主著に、『イラスト紅赤いも歴史物語』(平成29年)、『紅赤120年の魅力』(平成30年)など。

江戸時代にヤキイモブーム、川越イモが人気化

―「川越いも」とは。

山田 関東でのサツマイモは、1735年青木昆陽が江戸の小石川での栽培に初めて成功しましたが、この川越地方では1751年、現在の所沢市南永井の吉田弥右衛門という人が、現在の千葉県市原市からサツマイモを導入したのが始まりです。初めは救荒作物でしたが、それが江戸庶民向けの商品作物になり、有名になります。1800年代の初め頃から、その江戸庶民のおやつということでヤキイモが人気になります。各地のイモがあったのですが、川越地方のイモが一番おいしいとされ、江戸の名物番付表にも川越イモとのるほど有名になりました。江戸後期から明治にかけ、川越イモの人気が続きました。昭和になっても戦前は、埼玉県は全国3位のサツマイモ産地でした。

―当時どこで生産していたのですか。

山田 川越地方は関東ローム層の武蔵野台地の畑作地帯の全域です。川越の南部、三芳、所沢、ふじみ野、新座とか狭山とかまで。麦との輪作で作り、新河岸川舟運で東京に運んでいました。

―その後は。

山田 大正時代、関東大震災があって東京の多くの焼き芋屋が廃業してしまいました。またパンとか他の間食類が普及し、ヤキイモ需要が減少。さらに戦争になり、統制でガソリン代用のアルコール原料としてのサツマイモを国策で作れとなり、生産は食用品種から多収量の不味い品種にシフトし、従来のヤキイモ品種の生産は落ち込みました。戦後、千葉、茨城の生産は増加しましたが、埼玉は、青物野菜等へ転作したため生産量は戻りませんでした。今は生産量1番は鹿児島、2番は茨城、3番は千葉で、埼玉は10番以下です。

武蔵野台地はイモ栽培に適している

―それでも「川越いも」のブランドは維持されたわけですね。

山田 なぜ有名なのかというと、江戸・明治時代からのブランド力もあるし、また実際この地域はイモを作るのに適した土壌のため、食べておいしいイモができるのです。また、先進的な試みがあります。イモ掘り観光は、川越市今福の坂本さんという方が始めたのですが、昭和30年代に盛況になりました。さらに昭和60年代以降は、私たちが関わった「川越いも」の文化活動があります。
「川越いも」には3つの波があると言われます。第1の波が、江戸・明治時代のヤキイモブームで生産量も増えた。第2にイモ掘り観光で栄えた時期。第3に、イモ文化活動でイモ商品が花咲く町になった現代です。

―今、地域のサツマイモはどこで生産されているのですか。

山田 三芳町上富を中心にした三芳町川越いも振興会が約30軒、川越市の川越いも研究会が15軒です。他は、狭山とか所沢、ふじみ野などですが、今は少ない。

三芳町上富のいも街道

―品種は。

山田 品種は、紅赤が120年前に発見されてからは川越イモと言えば紅赤でした。戦前は「東の紅赤、西の源氏」と言われ、2大品種でした。ただ35年くらい前に紅東(ベニアズマ)が出て、今は15、6種類くらいの品種が作られています。

紅赤

―紅赤が一番おいしいのでしょうか。

山田 頑固な人は、今でも川越イモは紅赤だと言います。実際、紅赤の適地です。現在、三芳町上富が紅赤の本場となっています。三芳町の川越いも振興会では、会員農家が必ず1反くらい紅赤を作ろうとしています。最近の新しい品種は誰でもどこでも収量があがる。紅赤は、昔から土地を選び、技術がなければできない気難しい品種です。特にイモづくり名人の腕を競うのが紅赤です。
しかし、紅赤に限らず川越イモは食べてホクホクしておいしい。シットリとしたものやネットリしたものもできる。武蔵野台地はサツマイモを栽培するのに土壌が合っており、いいイモができる。三芳町の上富あたりが、江戸時代から本場中の本場と言われています。

 

川越ほど、イモの歴史文化もあり、古くからの芋菓子もある町は他にない

―山田さんが関わってきたイモの文化活動とはどのようなものでしょうか。

山田 イモ掘り観光が各地に普及し、川越でのイモ掘り観光農家の軒数が少なくなってからは保存のための文化活動があり、徐々にイモ商品があふれる町になりました。私らが始めた昭和57年頃は、川越のイモ菓子といえば、芋せんべいと芋納豆と芋松葉、黄金芋くらいしかありませんでした。その後、テレビの影響もあり川越も観光客が多くなる。川越に来たらイモだということになり、いろいろな業者がイモ商品を扱うようになります。イモ料理のいも膳も昭和57年頃にオープンしました。イモの文化活動をすることによってイモ菓子がどんどん増えて売れるようになり、そのことが観光地化に拍車をかけた。そういう流れです。川越ほど、イモの歴史文化もあり、古くからの芋菓子もある町は他にないようです。

いも膳のいも懐石

―今、イモ製品はどのくらいあるのですか。

山田  川越いもの歴史文化を背景にしたイモ商品だけでも、昨年(2018年)調査しましたが川越地方(三芳町・ふじみ野・所沢なども含む)で約300種くらい、扱っている業者も220~230軒あります。他にイモ料理を食べさせる店もあります。川越地域はイモ料理が食べられる、商品として観光でも利用している、歴史もあり、文化活動もやっている、世界一のサツマイモ天国と言われます。そういうところはないので、結構国内外から視察が来ます。

いも菓子「川越ポテト」(紋蔵庵)

いもビール「紅赤」(協同商事コエドブルワリー)

「ダサイタマ」、「イモ電車」、「イモの町川越」と卑下されていた

―イモに関する保存と文化活動を担ったのが「川越いも友の会」なわけですね。

山田 昭和59年、井上浩先生(元松山高校教諭)、ベーリ・ドゥエル先生(東京国際大学名誉教授)と一緒に立ち上げました。消費者、農家、製造業者、小売店、研究者など、職業を問わず市民が参加する文化運動グループです。

―会の目的はどのようなことだったのですか。

山田 サツマイモの伝統文化を守ろうということです。川越はイモで有名で、その頃川越で何が有名かアンケートをとったら、時の鐘、蔵造り、川越祭りと共にイモでした。しかし、川越生まれの私たちもなぜ有名なのか知りませんでした。その頃、「ダサイタマ」、東上線も陰で「イモ電車」と言われ卑下され、マスコミを見ても、「イモの町川越」。当時、サツマイモの地位が低かった。川越いもの生産も減っていく。川越地方のイモ生産や歴史を守ろうと、文化活動を市民運動で始めたのです。

友の会の情報発信でイモ製品の市場拡大

―山田さんは当時お仕事は何だったのですか。

山田 私は元々川越市の職員で社会教育をやっていました。昭和57年が市政60周年で、地域を再発見する事業として、福原公民館でサツマイモの講座「さつまいも大学」を取り上げたのがサツマイモとの関わりの始まりです。

―友の会はどのような活動を。

山田 各種のイベント(川越いも作り、いもシンポジウム、いも料理講座、見学会、川越いも祭りなど)情報発信(会報、いも料理本、小冊子発行など)です。生産者に加え、主婦が入って研究者も入って、業者も入って、横ぐしを通して文化活動でやった。

―製品開発が主たる活動ではなかったのですね。

山田 文化活動をやることで、「イモの復権」ということでマスコミで取り上げられるようになり、以前からイモ菓子を扱っていたところも爆発的に売れるようになった。菓子屋横丁も昔は飴玉中心でさびれていたが、観光化の波にのり、イモ菓子を扱いお客さんが来るようになる。業者はそれぞれ自主的に商品を開発していきましたが、平成6年には川越いも友の会内の業者が集まり「川越サツマイモ商品振興会」を立ち上げました。

―さつまいも資料館(平成20年閉館)の開館はいつですか。

山田 平成元年です。いも膳が敷地内に建物を用意してくれました。発案者は井上浩先生で、内容は私が企画し、市の職員を辞めて3年間館長として勤務しました(後任は井上氏)。

「サツマイモまんが資料館」を開く

―今度新しくできる資料館はどのような施設ですか。

山田 前の資料館と同じように、情報発信の拠点にしたいと思っています。蔵造りのまち(一番街)にある和菓子の紋蔵庵店舗の2階をお借りし、12月にオープンします。イラスト漫画中心のパネル展示とテーブルを囲んでレクチャーを聴く「川越いも学校」を併設します。これまでの博物館や資料館の展示は専門的でわかりにくいので、できるだけやさしく展示します。

―運営は。

山田 川越サツマイモ商品振興会です。私とドゥエル先生(川越いも友の会会長)の2人で館長を務めます。

―「サツマイモの日」があるのですか。

山田 昭和62年に全国から募集して、川越いも友の会がサツマイモの日(10月13日)を制定しました。平成7年には、商品振興会が市内の妙善寺に「さつまいも地蔵尊」を建立、毎年10月13日にはいも供養を執り行っています。この日は全国的に公認され、スーパーでも特売をするところもあります。

いも供養(妙善寺)

―川越が盛り上がってきたのは、蔵造りという歴史的建造物があったことが大きいとされていますが「川越いも」も貢献していますね。

山田 蔵の町の保存活用をすすめた蔵の会ができたのが昭和59年頃ですが、いもの会も同じ時です。さらに川越唐桟振興会も同時期。衣食住が、偶然にも同時に進行した。観光で蔵を見せる時のお土産として、イモ商品の開発が起きた。それが原点です。

サツマイモの商品文化、加工技術の、お互いの情報の整理、共有化が大事

―今後の目標は。

山田 今回はまんが資料館ですが、最近東京・北千住にさつまいも情報センターができました。何が重要かというと、情報のネットワークです。情報交換がまだ足りない。世界でサツマイモ生産量一番が中国で日本は10番くらい。アメリカは日本の倍くらいある。だが、加工製品とか品種は日本がトップクラス。だから、「川越地方のサツマイモ商品文化は世界一」という宣言をした。海外からのイモ商品の視察も多い。サツマイモの商品文化、加工技術の、お互いの情報の整理、共有化が、今後は大事ではないか。意外と、相互の情報が共有されていない。

―山田さんは「サツマイモ商品文化学」を掲げておられる。

山田 原点と川上が育種と品種で、最後の川下がサツマイモ商品。大事なのは、消費者心理、地域の食文化やマーケッティングも含めて商品開発が必要だということです。今、耕作放棄地でサツマイモを作ろうという地域が増えているが、作ったイモをどう活用してよいかわからない。イモによる地域活性化策を含めて幅広く提案していきたい。

―まんが資料館のイラストも山田さんが描かれるのですね。

山田 イラストは昔から描いていました。イラストの似顔絵やマップとかも頼まれて。今の人は、あまり字を読まないので。イラストや漫画を利用して、面白く伝えたいですね。

(取材2019年10月)

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