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飯能の歴史 飯能戦争には渋沢栄一の縁者が参加 天覧山は明治天皇ゆかりの山

埼玉県の西のはずれ、入間川と高麗川が流れ、北西に外秩父山地が控える飯能市。市街の背後に立つ天覧山は200mに満たない低山だが、眺望がよく、明治16年には明治天皇が近衛兵の演習視察で登っている。明治維新時、麓の能仁寺を含む町が飯能戦争の舞台となった。飯能戦争には渋沢成一郎、尾高惇忠、渋沢平九郎ら渋沢栄一の縁者も参加しており、2021年3月からNHK大河ドラマ「青天を衝け」の放送が始まったのを機に、飯能市立博物館で「飯能と渋沢栄一」と題するパネル展が開かれている。天覧山を中心とする飯能の歴史、渋沢栄一との関わりなどについて、同博物館の尾崎泰弘館長にお聞きした。

高麗郡の一部だった飯能

-「飯能」という地名の由来は。

尾崎 いろいろな説がありまして、よくわかりません。「飯能町」「飯能市」の範囲は時期によって異なり、今は周辺の山間部を含め拡大しています。

-名栗村は今は。

尾崎 2005年に飯能市に編入され、今は飯能市の一部です。

-飯能にはどのような歴史がありますか。

尾崎 716年に、今の日高市を中心に高麗郡という新たな郡をつくり、渡来して関東に住んでいた朝鮮半島由来の人たちを集めて開発させました。少なくとも飯能市の東部は高麗郡に含まれていたと考えられます。

西川材の産地

-中世には武蔵武士丹党の本拠地だった?

尾崎 中世には武蔵七党の1つ丹党・加治氏の足跡を、本市と入間市にまたがってたどることができます。二俣川で畠山重忠と戦い討ち死にした有名な加治家季という人がいて、「吾妻鏡」に出てきたりしています。加治氏の子孫が中山氏となりました。中山家勝は、天文15(1546)年に川越夜戦に参加、その後北条氏の家臣となります。その子家範は、天正18(1590)年豊臣秀吉が北条氏を攻めた際、八王子城の守備にあたり、自害しています。

-産業は材木と織物が主だったのですか。

尾崎 織物(絹、綿)は周辺の農村で作られ、町に織物が集まってくるのは江戸時代の後半くらいからです。材木は山間地で古い時代からありましたが、江戸時代中頃になり植林して江戸と取引するようになった。いわゆる「西川材」で、入間川、高麗川を筏で流して運んでいた。筏は渇水期は流せないが、武蔵野鉄道ができて、鉄道で運べるようになり、飯能の町に材木が集まり、大正以降飯能が材木の町と呼ばれるようになりました。

明治44年の飯能の町(飯能市立博物館資料)

-今の飯能市は。

尾崎 ベッドタウンです。西武池袋線の特急で池袋まで40分、急行でも50分です。UR都市機構が開発した団地もあります。

周りから見えるし、上るのも簡単で、上ると景色もいい天覧山

-天覧山はどんな山ですか。

尾崎 標高197mの低い山で、本来能仁寺の境内地なんです。末寺が15もある大きなお寺です。山は周りから見えるし、上るのも簡単で、上ると景色もいい。行楽地になったのは、武蔵野鉄道(今の西武池袋線)ができて観光開発をするようになってからですが、昔から親しまれてきた山です。

-天覧山という名はどこから。

尾崎 元々は江戸時代は「愛宕山」と呼ばれていた。頂上に愛宕神社があったからです。江戸時代の後半に中腹に十六羅漢の石像が奉納されて、「羅漢山」に名前が変わった。それが明治16年に天皇が上ったので天覧山になったわけです。

-明治天皇はどうして山に。

尾崎 近衛諸兵の軍事演習がここ(飯能市東側の平地)で行われたのです。天覧山は眺望が効くので、演習を見渡すのに都合がよかったと考えられます。その時飯能の町にたくさん兵隊が泊まっている。明治天皇は金子忠五郎という人の家に泊まっています。家は今は残っておらず、小町公園になっていますが。

天覧山頂上から見た飯能市街

渋沢成一郎、尾高惇忠らが駐屯

-飯能戦争(慶応4年=1868)は飯能が舞台だったのですか。

尾崎 戊辰戦争で旧幕府方の振武軍が飯能にやってきたのです。能仁寺がこの辺では最も大きなお寺だったので、本営になりました。渋沢栄一の従兄で振武軍頭取である渋沢成一郎(幼名喜作)、同じく従兄で渋沢の先生だった尾高惇忠とか幹部が駐屯したのです。

能仁寺

-振武軍はなぜ飯能に来たのですか。

尾崎 元々振武軍は上野の彰義隊から分かれてできた。上野で彰義隊が壊滅するのは慶応4年(明治元年)の5月15日なんですが、振武軍はその前に上野から離れ上野戦争には参加していません。田無で振武軍を旗揚げし、周辺の農村からお金を集めて、箱根ヶ崎に駐屯し上野戦争が始まるといったん救援に行く。途中で戦争が終わったと聞き、田無に戻ってきます。上野戦争で負けた連中も続々と田無に集まってくる。その時、新政府軍が追撃に来るのはわかっており、どこで迎え撃つかとなり飯能に来ることになります。

-何人くらい。

尾崎 少なくとも400人。市内の6つのお寺に分かれてとどまりました。

-その中に、渋沢栄一の縁者が。

振武軍の旗(飯能市立博物館)

尾崎 渋沢成一郎、尾高惇忠とやはり従兄弟で養子にした渋沢平九郎の3人です。

-能仁寺を選んだことと天覧山は関係していないのですか。

尾崎 見晴らしがきくので振武軍も見張りのため上っていたようです。

わずか半日で終わった市街戦

-市内が戦場になったのですか。

尾崎 市街戦です。

-戦闘は何日間続いたのですか。

尾崎 半日です。5月23日の真夜中に狭山市の笹井というところで始まり、一度戦いはストップ。振武軍は飯能に逃げてきて、翌日明るくなってから新政府軍は町に攻めてくる。夜明け頃から戦闘が始まり、午前中には終わってしまいます。

飯能戦争広域図(飯能市立博物館)

-何がそのような差を。

尾崎 新政府側は鳥羽・伏見の戦いから鍛えられています。西洋式の調練をやって、銃、大砲の扱いも慣れている。振武軍は旗本の子弟もいたが、皆が銃も大砲も使える連中ではないし、銃の性能もおそらく新政府側が上だった。

-犠牲者の数は。

尾崎 わかりません。ただ、そんなに出ていないようです。

-町中には被害が。

尾崎 家が200軒、寺が4カ所燃えています。市街戦やって、隠れている兵隊をあぶり出すため火をつけますから。

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渋沢平九郎は黒山(越生)で自刃

-渋沢栄一の縁者は逃げたのですね。

尾崎 渋沢成一郎と尾高惇忠は伊香保方面に逃げました。ただ渋沢平九郎は途中で追い詰められて、黒山(越生)で自刃しています。

-その時、渋沢栄一はどうしていたのでしょうか。

尾崎 その時フランスに行っていました。慶応3年1月に将軍徳川慶喜の弟の昭武がフランスの万博に行くのでその随行に選ばれ、渡航しています。代わりに養子になっていた平九郎が振武軍に参加したわけです。

-飯能戦争に関わる史跡が残っていますか。

尾崎 能仁寺に当時の様子を示すものはありません。境内に昭和12年に建てられた振武軍の碑があります。渋沢や尾高の孫たちと飯能の有力者たちが作りました。

能仁寺に立つ振武軍の碑

渋沢栄一は元治元年(1864)一橋家の人材確保で飯能に来た

-飯能に渋沢栄一が来たのは。

尾崎 合わせて5回来ています。渋沢栄一は元治元年(1864)2月に、後に振武軍の頭取になる従兄の渋沢成一郎と一緒に一橋家の家臣になっています。一橋家は御所を守る役割を仰せつかっているが、兵が少ない。そこで農民から兵隊を集めて訓練しようと、6月に関東の一橋領に屈強な人を探しに来た。その時に飯能にも来ている。入間川の上流に一橋領があったのです。

平九郎がらみでは明治32年に、追悼のために来ています。大正2年は講演のためで、飯能に泊まり、その翌日は川越で講演をして帰っています。

大正4年武蔵野鉄道(今の西武池袋線)が開通、明治神宮誘致計画

-その後、天覧山をめぐる動きは。

尾崎 大正4年に、武蔵野鉄道(今の西武池袋線)が開通しますが、その少し前くらいから観光開発が始まり、その一つの名所づくりとして天覧山が取り上げられます。本多静六博士の提言を受けて、周辺に桜を植えたり、道の整備を始めた。また近くの山腹に、明治神宮を誘致しようという計画も進めました。

-明治神宮の誘致とは。

尾崎 いま東京・原宿にある明治神宮です。明治天皇をまつる神社の造営ということで、全国の由緒があるところが立候補した。ここは明治16年に明治天皇が来ているし、鉄道も開通する予定なのでということで。候補地を決め、ちゃんとした設計図まで作り一生懸命誘致したんですが、結局東京に決まってしまったのです。

三島由紀夫の「美しい星」

-三島由紀夫の小説に天覧山が出てくるのですか。

尾崎 「美しい星」という小説です。始めの部分に飯能の町の様子を書いています。三島はその時に実際に飯能に取材に来ています。

天覧山麓にあたらしく誕生した「OH!!!」

-天覧山の下に漬物の施設ができた。

尾崎 ピックルスコーポレーションの「OH!!!」という施設です。能仁寺のとなり。売店とレストランなどで、結構人は来ているようです。

飯能市立博物館尾崎館長

(取材2021年4月)

渋沢平九郎

渋沢栄一と入間

渋沢栄一と越生

越生黒山三滝

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