東上線大山駅から賑やかなハッピーロード商店街を抜け国道254号に出てすぐに右に折れると旧川越街道に入る。しばらく行くと、環七通り手前、石神井川に下頭橋という変わった名の橋が架かっている(通りの通称も下頭橋通りだ)。橋には、江戸時代寛政年間にここで死んだ六蔵という名の乞食の伝説があり、今、六蔵を祀るりっぱな祠が建つ。この橋は、乞食の六蔵と六蔵を弔った旅の僧、大正から昭和にかけて六蔵を崇敬し世に伝えるのに貢献した佐藤耶蘇基という人物、祠を祀った地域の人たちが織りなす不思議な物語の舞台となっている。
下頭橋(下練馬・川越側から望む)
下頭橋の名の由来
下頭橋の名の由来については2つの説がある。
六蔵祠の案内板
その1 寛政年間(1789-1801)の頃、橋は丸太を2本渡しただけの粗末なものだった。この橋のたもとに六蔵と呼ぶ老乞食が住み着いた。彼は一日中土下座をして往還の旅人から喜捨を受けていた。六蔵が臨終の時、一人の旅僧が飄然とやってきて遺骸を葬ったが、その時死者の懐中から永年貯えた大金が出てきた。旅僧はこの金で立派な石橋に架け替え、旅人の苦難を除いた。村人は永年頭を下げ続けた老乞食の徳を慕い、橋名を「下頭橋」とした。
その2 川越藩主の出府(江戸に向かう)や下向(江戸から川越に向かう)に際し、殿様をこの橋まで家臣が出迎えたり見送ったりして頭を下げたことから橋名となった。
六蔵を祀った「六蔵祠」と「逆さ榎」
六蔵祠
橋名については真偽はわからないが、六蔵伝説は興味深い。橋のたもとには現在六蔵を祀った「六蔵祠」が建ち、その境内には六蔵供養と石橋建設の際作られたものとみられる「他力善根供養碑」という石碑が置かれてある。
この祠の近くには以前「逆さ榎」と呼ばれた榎の大樹が繁茂し、太い幹の空洞には白蛇が住むと恐れられていたという。この榎は六蔵を葬った旅の僧が逆さに地面に突き刺した杖から芽が出たことから名づけられた。ご神木で功徳があるとされ、他村よりも参詣人が絶えることがなかった。関東大震災の後切り倒されたが根だけが残り、一部が「六蔵祠」に収められていたという。
佐藤耶蘇基という仙人のような人
寛政年間の六蔵の話がどのように伝わり、六蔵祠建立に至ったのだろうか。
大正の初め頃、この橋の近くに佐藤耶蘇基という人が住み着いた。一風変わった人で近所から「仙人」と呼ばれていたそうだ。佐藤氏は『下頭六蔵菩薩の由来』(昭和4年)という著書(冊子)を書き残しており、それによると、佐藤氏は六蔵伝説に興味を抱き調べるためここに庵を結んだ。田んぼの踏み板にされていた石碑を掘り起こし、供養し、祀った。佐藤氏はしばらくして橋の住処を離れたが、昭和になり河原金五郎氏(現在橋の袂にある河原商店の先々代)ら橋の近所の人が訪ねてきて、石碑の由来を尋ねた。佐藤氏の話に感銘した人たちは、六蔵を「下頭六蔵菩薩」として祀ることになり昭和4年、祠が完成したという。
六蔵祠と河原商店
佐藤耶蘇基著『下頭六蔵菩薩の由来』(昭和4年)
以下は佐藤耶蘇基氏が著した『下頭六蔵菩薩の由来』(昭和4年)の概要である。
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私は、かつて橋の由来を聞き、橋の袂に引っ越し、ころんでいた石碑を起こして祀った。その後、地域の老人たちの尽力で御堂を建立し祀ることになったことは、今の世で社会、人生を導く偉大な力となると考え、発表したい。
寛政10年頃、川に橋はなく丸木が2本だけ渡してあった。ここに1人の男がさすらってきて、粗末な掘っ立て小屋を建てて住んでいた。日常生活は無言の托鉢-乞食生活であった。村人は誰1人その人の名も知らず、歩いているのを見ればつばを吐きかけたり、水を振りかけたりした。
今の石神井川(下頭橋から)
ある日、男が宿場茶屋の横の井戸で水を飲んでいると、子どもたちが石を投げ、男は頭にケガをした。茶屋の主人があやまると、「私こそあやまらねばならない。私という五体があればこそ、石も投げられ、当たりもする」と言い、立ち去った。それを見送り、老主人は「ただの乞食ではない」と感心した。以後彼が通るたびに話を聞き、尊敬の念が増し、彼を「六蔵さん」と呼ぶようになった。その人は、穢い着物を身にまとっていても、内在の仏神(良心)のみ光を失わず修行している人、誠に尊い人格者であった。
ある時、無名の旅僧が石神井川の岸に立ち寄ると、傍らの小屋に人の寝ている気配に気づき、うかがうともう生気がなかった。乞食の入寂の態度に感じるものがあり、葬ることにした。仏を裸にすると、胴巻から夥しい金子が出てきた。旅僧は考え、仏の心を世に生かすため、不完全な渡し木を橋に架け換えることにした。供養も済まし、小屋の脇に土葬にし、工事の手配をした。翌年春橋が竣工、仏の在世の生活から「下頭橋」と命名、また石碑を建て、
他力善根供養
願以此功徳 普及於一切
我等興衆生 皆共成仏道
寛政十戊午歳二月 願主 善心
と刻んだ。善心は旅僧の法名と思われる。
同時に一周忌も済まし、旅僧はついていた榎の杖を石碑の脇に逆さまに刺して漂然と出立した。この逆さまの杖から芽が出て、年毎に伸び行き大正13年まで下頭橋の上に鬱蒼と繁っていた。
佐藤氏は下頭橋の由来を聞かされて、大正11年下頭橋のたもとに小屋を建て移り住んだ。当時、石碑は橋の袂の田圃に行く道の溝の踏み板にされており、それを起こして供養した。聞くと、明治37、8年に東京府で橋を架け換える時に邪魔になってころばした。榎は由来が深く、功徳があって、遠くから祈願をかけにくる神木であったが、大震災で傷んだ橋の修繕のため翌大正13年に榎を切り倒した。榎を切った時は、3人のケガで済んだが、切った男の妻が後に頓死した。
昭和2年、下頭橋の近くに住む3名の人が十条に移っていた佐藤氏を訪ねてきた。その1人は下頭橋の脇に店を出した河原金五郎氏だった。河原氏によると、石碑と榎のあった場所に参拝に来る人がおり、また橋の架け替えの際川から石が2個出てきた。お祀りしたいがご本尊もわからないと。由来をお話し、下頭六蔵菩薩として御堂を建てお祀りすることになった。榎の切り株は川下の堰に引っ掛かっていたのを引き上げてあり、それを御堂に運びお祀りした。
救道と社会奉仕に沈黙の一生を捧げ尽くした尊い犠牲の精神が、叢に埋もれていたのが、今回復活された。
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渋沢栄一の名がある扁額
なお、六蔵祠に「博愛」と題する扁額が架けてあり、そこに「昭和庚午六月 子爵渋沢栄一」と彫ってある。この扁額は、河原商店に伝わり、現当主の河原健さんによると六蔵祠建立に関わった祖父の金五郎氏が手に入れたものらしいが、渋沢栄一との関係は不明という。
六蔵祠に架けられた扁額
(取材2021年7月)
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