朝霞には戦後、米軍基地があった。朝霞の街を歩くと、中央公園、青葉台公園と緑が多く、学校など公共施設も敷地が広い。これらはすべて、返還された基地の跡地に建設されている。
旧川越街道沿いの栄町地区は米軍相手の飲食店などが軒を連ね、「日本の上海」と呼ばれる歓楽街だったが、今は文字のかすれた店の看板などにその名残りをとどめるだけだ。
基地の記憶はうすれているが、今の朝霞の街づくり、人々の心に大きな影響を与えてきた。
基地の歴史を調査し、『君たちに伝えたい 朝霞、そこは基地の街だった』(梨の木舎)の著書もある中條克俊先生(朝霞第一中学校=当時)にお聞きした。
戦時中「ミニ軍都」だった朝霞
―朝霞の基地の始まりは。
中條 朝霞は戦時中「ミニ軍都」と呼ばれていたんです。それは2つの陸軍の施設があったからです。1つは、軍服やパラシュートなどを作る工場である陸軍被服廠、もう1つは陸軍予科士官学校という将校を育てる学校があった。被服廠は今の朝霞一中の敷地、士官学校は今の自衛隊朝霞駐屯地のところ。1941年、太平洋戦争を始める年に、戦争に備えるために作られたわけです。士官学校は元々市谷にあったんですが、手狭になったので朝霞が選ばれて移ってきました。
―そうした軍の施設に、終戦で米軍が進駐してきたわけですね。
中條 米軍が空襲をする際、朝霞は攻撃のターゲットになっていないんです。米国はその時すでに占領後のことを考えており、東京帝都は焼け野原になっているから使い物にならず、朝霞にある予科士官学校と被服廠の施設を占領の拠点として温存したのだと考えられます。マッカーサーが来る前に1945年8月31日か9月1日、先遣隊が朝霞に来ています。いの一番に朝霞を拠点にしようと考えていたわけです。
―旧陸軍の施設を用いたのですか。
中條 予科士官学校の兵舎をそのまま米軍の兵舎にし、被服廠には本部を作るんです。「キャンプドレイク」と呼ばれた米軍基地になります。
朝鮮戦争時には米軍司令部
―朝霞の中心部、かなり広大な地域ですね。
中條 「キャンプドレイク」のゲートは今の朝霞郵便局のところが北門で、青葉台公園、中央公園、その間の遊休地になっているところ全部、川越街道の北側が「ノースキャンプ」で、南側を「サウスキャンプ」と呼んでいました。
カマボコ型兵舎
―キャンプにはどのくらいの人員が。
中條 最初進駐してきたとき第1騎兵師団4千人。その後第43師団が被服廠の方に。やがて朝鮮戦争時には、朝霞が米軍極東司令部になっていくんです。1950年に戦争が始まったときに全国の米兵はいったん「キャンプドレイク」に集まり、そこで指令系統を統一し、朝鮮半島に送り出した。多いときには1万5千人から2万人の米兵が朝霞に集合しました。
―基地の規模は、朝鮮戦争時がピークですか。
中條 そうですね。ただ、1965年に始まったベトナム戦争時には野戦病院が作られるんです。傷病兵がベトナムから立川に運ばれ、立川から朝霞までヘリコプターで来るんです。ヘリの基地が今の朝霞西高校のあたりで、西高から青葉台公園にかけてが野戦病院でした。ここで多くの米兵が死んでいます。
死んだ米兵の死体の仮処理をするので、西高と青葉台公園の間に大きなプールがあってそこで死体を洗った。その仕事が1日1万円だったといわれている。そこで働く人の多くは東上沿線の人だったようです。朝霞はすさまじい状況だったわけです。
「日本の上海」と呼ばれた栄町
―旧川越街道沿いの栄町は米軍相手の歓楽街で「日本の上海」の呼ばれたそうですね。
中條 栄町には元々お店なんかなかった。米軍が進駐すると最初は米兵がワイシャツや軍服を洗ってくれというのでクリーニング屋ができる。そのうち休暇のときにビールはないかと来るので、家の前にみかん箱を置いてビールを出した。飲み屋さんがどんどんできてくる。そのうち当時「パンパン」と呼ばれた売春女性が増えてきて、女の街になる。全国から米兵が朝霞に集まるようになると、女性も部隊についてくる形でふくらんで、一時は5百人くらいの売春女性が集まったらしいです。朝鮮戦争の前線に送り込まれる兵士は、もう帰ってこれないかもしれないと、栄町でお金を使う。そうすると本当に戻ってこなかったそうです
周囲は農村地帯で、朝霞栄町だけが不夜城のごとくネオンギラギラの街になるんです。当時を知る人たちに聞くと、子どもたちは親から絶対にあそこには近づくなと言われたそうです。
―当時の栄町の地図を作成されたそうですね。
中條 私は暇があると栄町に行き、古い建物があると飛び込んで聞き取りをしました。いろんな方から話を聞いて、当時の地図を作成した。バー、キャバレー、ダンスホールなど70軒くらいのお店を確認しました。
―旧川越街道は交通は多くなかったのでしょうか。
中條 当時は砂利道だった。トラックが通り、砂埃が立ちこめ、そこに立ちんぼといわれたパンパン、やくざがたむろし、銃声、けんか、麻薬、何でもありのすごい場所だったんです。
―キャバレーは今のマンション1棟の敷地で、巨大さに驚きます。
中條 現在の「コトー朝霞中央公園」はキャバレー「サンフランシスコ」、「シャルム朝霞」は「リージョンクラブ」といって、当時三国人と言われた韓国・朝鮮の人たちが経営していたようです。「日本の上海」と呼ばれ、いろんな国、民族の人たちがごったがえしていた場所だったんです。
クレイジーキャッツ、ペギー葉山、江利チエミ
―その後有名になった歌手も朝霞で出演していた。
中條 戦後の日本の歌謡曲はジャズから始まるんですが、ジャズは米軍基地のジャズマンから始まるんです。ここはジャズの発祥の地といってもよい。
戦後まもなくの人たちは米軍基地で鍛えられるんです。クレイジーキャッツ、ペギー葉山、江利チエミ、雪村いずみ。
―フランク永井は基地で働いていたそうですね。
中條 今の朝霞第一中学校のところはモータープールといってトラックの駐車場だったんです。フランク永井は売れる前そこのトラック運転手だった。運転手をしながら歌の勉強をし米軍基地めぐりをするうちに、低音が受け、一躍トップスターに成長していくんです。
朝霞一中を建設するとき、ゲートの看板などモータープールの跡が残っていました。
―基地はいつまで。
中條 朝霞市内で最終変換されるのは1986年です。今でも和光市に米軍基地は1部残っていますが。
―返還されて「ノース」は公園や公共施設などになったが、「サウス」は。
中條 自衛隊です。今陸上自衛隊朝霞駐屯地と東部方面総監部が置かれています。
―栄町の街はさびれました。
中條 地域の人は街の繁栄はベトナム戦争までで終わったといいます。栄町というと年配の方は「ああ、あそこですね」と感慨深げです。
―栄町でまだ残っている店は。
中條 喫茶「海」とそばの「長寿庵」でしょうか。他に旅館は残っています。売春宿だったようです。「海」は、今残っているジャズ喫茶で一番古いのではないでしょうか。
基地跡地の道路
―基地の跡地には今公務員宿舎建設計画があります。
中條 公務員宿舎のツインタワービルを作る計画が着々と進んでいましたが、事業仕分けで現在は建設が凍結されています。私はそれでよいのではと思います。この中にまだかまぼこ兵舎があるんです。こういうものを、ここに基地があり米兵が生活していたという証拠として残して、喫茶店など市民の憩いの場にしたらどうでしょうか。
南栄児童遊園地
―当時をしのばせるものは他にないのですか。
中條 栄町の真ん中にある「南栄児童遊園地」は、地域の人が作った子どものための公園なんです。すさんだ状況の中でも子どもにすこやかに育ってほしいという地域住民の願いの結晶です。そこに碑があり、朝霞が「日本の上海」と呼ばれたと書かれています。
朝霞は今は緑と水の豊かな街と生まれ変わっていますが、過去の歴史を消し去ることはできないです。すべてをひっくるめて朝霞という町が好きなんだというのが本当の郷土愛ではないかと思います。
(本記事は、「東上沿線物語」第29号=2010年5・6月に掲載されました。中條先生はその後『君たちにつたえたい(2)朝霞、キャンプ・ドレイク)物語』を著しました)
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