吉見百穴の公園内に売店「発掘の家」を出す大澤家は、地主で明治20年の発掘に協力した。出土した遺物も所有し、売店で公開している。百穴の歴史を見続けてきた大澤家の現当主、大澤康さんにお話をうかがった。吉見百穴
明治20年、坪井正五郎の発掘に先祖が協力
―お宅はここの地主さんなのですか。
大澤 吉見百穴は個人の岩山です。地権者は3人ほどいますが、ほとんどはうちです。
―元々、お宅の祖先が発掘に関わられたそうですが。
大澤 明治20年に坪井正五郎先生が発掘した時、当時の冑山(かぶとやま)村(現熊谷市)の根岸武香さんと私のご先祖の大澤藤助(5代前)が先頭に立って協力しました。
明治20年に発掘し石の蓋をはずし終わって記念に撮った写真があります。明治なのでみんな着物です。
―ここは元々岩山だったのですね。
大澤 そうです。いくつか穴は見つかっていたのですが、不思議な山だくらいにしか思われていなかった。明治20年に坪井先生が訪れて東京大学、地元の人の協力を得て初めて発掘したわけです。
数々の出土品、横穴墓の蓋も
―それでお宅は出土品をお持ちで、お店で公開されている。
大澤 出土品のほとんどは東京大学が研究のため持っていってしまったのですが、一部を置いていってくれたわけです。
須恵器、勾玉、管玉、耳環、直刀などいろいろあります。
―これは横穴墓の蓋ですね。
大澤 蓋です。坪井先生は住居説を唱えたのですが、これが決め手となってお墓だったということになりました。(住居だとすると)これをはずして出入りすることになり、不自然です。
―地元では「ひゃくあな」と呼んでいたのですか。
大澤 今穴は219あり、横穴古墳としては日本一です。地元ではたくさん穴があるので「ひゃくあな」と呼ばれていて、町も「ひゃくあな」を正式名称にしています。
エドワード・モース、正岡子規
―昔からそれなりの人が訪れている。
大澤 大森貝塚を発見し日本の考古学の基礎を作ったエドワード・モース、正岡子規、ヘンリー・シーボルト(考古学者)も来ている。これは当時の農民の生活をモースが撮った写真 でその一部を大澤家に置いていった。正岡子規は明治23年に訪れ、「神の代は かくやありけん 冬籠」という句を詠んでいます。
―売店はいつから開かれているのですか。
大澤 昭和30年代から。祖父と祖母が始めました。
―入場者に変化がありますか。
大澤 昔は社会科見学でしたが、今は「百聞は一見にしかず」で全国から来られる方が多いです。
―人気のおみやげは何ですか。
大澤 8割が県外の方ですので、やはり埼玉銘菓で、「五家宝」が一番売れています。
(取材2023年1月)