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瀟洒で重厚な洋館
 
作家 山本有三の住居だった記念館 
(三鷹市)

三鷹駅から玉川上水沿いに井の頭公園に向かう道沿いに、瀟洒で重厚な洋館が建つ。小説「路傍の石」や「真実一路」、戯曲「女人哀詞」「米百俵」などの作品で知られる山本有三(1887-1974)が、昭和初期に家族と暮らした家だ。今は「三鷹市山本有三記念館」として一般公開されている。三鷹市スポーツと文化財団文芸企画員・学芸員の三浦穂高さんにご案内いただいた。

昭和11年から21年までの約10年間、家族とともに暮らした

                    
            山本有三 (写真提供:公益財団法人三鷹市スポーツと文化財団)

―この家は山本有三が住んでいた家ですか。

三浦 作家の山本有三が昭和11年から21年までの約10年間、家族とともに暮らした家です。当時の山本は、作家業が忙しく体調を崩したり、家族が増えて家が手狭になっていたという事情もあり、執筆に集中できる静かな環境で十分な広さもある家を探していたところ、知人からこちらの家を紹介されて、一目で気に入り購入したと言われています。

      正面入口

  案内板  
          
―建てたのはどなただったのでしょうか。

三浦 この家の元々の持ち主は、清田龍之介という大学教授や商社の役員もされた方です。大正7年に土地を購入、大正15年に建物を登記しています。

     
      南庭から

ライト風の建築、スクラッチタイル

―建物としてどのような特徴がありますか。

三浦 大正末期の建物なので、この家のデザインにも当時流行していた要素が取り入れられています。たとえば、外壁に櫛でかいたような模様のスクラッチタイルを使っています。これは帝国ホテルの設計でも知られるフランク・ロイド・ライトが好んで使っており、その影響が見て取れます。震災以降ライト風の建築が流行しています。もう一つ特徴的なのが、マントルピース(暖炉)が3つあります。

    暖炉

―山本有三はこの家に何人で住んでいたのですか。

三浦 母親、奥様、子ども4人と本人、合計7人で住んでいました。

―部屋割りはどうなっていたのでしょうか。

三浦 1階は玄関脇の暖炉部屋(イングルヌック)、食堂、応接間、奥は長女の部屋。2階は、洋室書斎、和室書斎、書庫、長男の部屋などがあったようです。

               
                   和室書斎

 

この家で、代表作「路傍の石」と戯曲「米百俵」を書く

―山本有三はこの家に住んでいる時に創作活動を行ったのですか。

三浦 有三はこの家で、代表作「路傍の石」と戯曲「米百俵」を執筆しています。

―戦争中はこの家を一般に開放したのですか。

三浦 昭和17年、戦争になり満足に本が手に取れない子が多かったのですが、その子どもたちのために邸宅の一部と所蔵していた本の一部を自由に読めるよう「ミタカ少国民文庫」として開放しました。戦争が激しくなり昭和19年に閉鎖を余儀なくされていますが、この活動が下地となって、建物は有三が手放した後も青少年文庫という図書施設として残りました。



GHQが家を接収

―昭和21年までしかここには住まなかったわけですね。

三浦 終戦後、昭和21年にGHQにこの家を接収されまして、有三は転居を余儀なくされました。数年後、返還されたのですが、壁にペンキが塗られるなど様変わりし、また有三のお子さんたちが大きくなり、この家に戻ってくることはありませんでした。

―GHQはこの家を何に使ったのですか。

三浦 高級将校の邸宅です。ご長女の記憶によれば、朝霞基地の騎兵隊長の家だったようです。洋館で水洗トイレも複数あり、接収される条件をほとんどクリアしたわけです。

―三鷹市の管理はいつから。

三浦 昭和31年、土地と建物を青少年の育成に役立ててほしいと有三が東京都に寄贈し、昭和60年に三鷹市に移管。平成6年に市の有形文化財に登録されました。

―「路傍の石」があるのですか。

三浦 入口そばに大きな石がありますが、有三が運ばせたもので、「路傍の石」と呼ばれ、親しまれています。           (取材2019年3月)

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