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産業化したのは200年前
史料で読み解く狭山茶の歴史

入間市博物館

  入間市博物館ALITで「狭山茶取引開始200年記念―史料で読み解く狭山茶の歴史」と題する展覧会が開かれている(201912月8日まで)。同館学芸員の工藤宏さんに展示のポイントを解説していただいた。

同博物館で2009年9~11月に開かれた特別展「狭山茶の歴史と現在」の記事はこちら

 お茶づくりの歴史で、お茶を蒸してつくるようになってから200年になります。蒸して揉んで乾燥させてつくる、蒸し製の煎茶は、商売としてのお茶づくり、狭山茶業として産業化していく歴史です。

<狭山茶前史> 現在の狭山茶になる前のゆかりのお茶、狭山茶ではないが元になるお茶づくりが始まったのはいつ頃からか。

 武蔵河越 河越氏の本拠地は狭山に近い上戸というところですが、上戸を中心に河越氏が入間川の舟運をおさえ広大な河越館を中心に領地をかためます。山からの物資と川で運ぶ物資の結節点であり、そこにお茶も集荷し河越の地名をつけて「武蔵河越茶」と呼ばれたのはないか。14世紀のことです。

 河越館跡では喫茶道具が発掘されています。茶臼はお茶を轢くためだけのもの(豆などは轢かない)、天目茶碗は主にお茶だけに使う(味噌汁とかご飯は入れない)。こういうものが出ていると、河越館でお茶をたしなんでいたことは間違いないわけです。

        
            河越館跡で発掘された喫茶道具

 現在の喜多院とか中院(無量寿寺)を開基したのは慈覚大師円仁ですが、円仁はお茶とゆかりのある人です。中国に渡りお茶のことを調べたり、飲んだりしたことが、彼の日記に残っています。これらのお寺もお茶と関係があるだろうと考えられます。

 慈光寺 埼玉県最古のお寺である、ときがわ町の慈光寺は、川越の寺より古いですが、そこでもお茶を作っていました。一時は山に75坊の僧坊があり、お坊さんなど300人以上が暮らしていたらしい。そこでお茶を作って毎日、神様・仏様に献茶をしたり、健康のために飲んでいた。慈光茶という名で呼ばれていました。

慈光寺の上に禅の道場で霊山院というお寺がありますが、栄朝という人が創建しました。栄朝は、日本の茶業史では有名な栄西の直弟子です。栄西から「栄」の字をもらい、非常に可愛がられた。その人が、慈光寺や霊山院に暮らしていた。彼はやがて、太田(群馬)の長楽寺という寺の開基になりますが、そちらでもお茶を栽培するなど活動をしています。ということで、お寺とお茶は深い関係があると考えられます。慈光寺に行くと、今でも写真のような茶の木が生えています。

        
                 慈光寺の茶の木

 武蔵河越茶、慈光茶が今の狭山茶にやがてなっていくわけです。

<お茶づくりの復活、産業化>

 やがて武蔵野を舞台に戦乱の世になり、茶づくりはすたれてしまいます。それを、再び、お茶づくりをしようと思い立った人たちがいました。現在の入間市宮寺の吉川温恭(よしかわよしずみ)、村野盛政(むらのもりまさ)、青梅の指田半右衛門(さしだはんえもん)という人たちです。そういう人たちがお茶づくりを復活させようと立ち上がる。それにアドバイスをし、スポンサーになったのが山本山なんです。山本山は元々京都ですが、江戸に出てきて、5代目が茶づくりを支援します。彼らは10年以上にわたる努力の末、文政2年(1819)にこの地に蒸して作るお茶を量産することに成功します。そして江戸の茶商たちとの取引が始まります。

 煎茶は、茶葉を蒸して、揉んで、形を整えて完成します。蒸すのが大事です。この方法を考案したのは、京都の永谷宗円という人。その技術を導入して、この地に根付かせたのが吉川、村野、指田という人たちです。

文政2年という年は静岡より先です。翌年には江戸の茶商に買い付けされる技術を持ったお茶農家が34戸あり、狭山丘陵中心にかなりの量産体制が敷かれました。以降、よいお茶を量産できるように茶畑の改良を進めていきます。第一歩はよいお茶の木なので、京都の宇治から種を買って、新しい茶木を作る試みがなされます。

 狭山茶の名は明治になってから統一ブランドになりますが、それまでは、関東のお茶、田舎のお茶とか呼ばれていました。品質的に認められると、「東野」とか銘柄として一本立ちします。

        

 吉川家に伝わる文書に、当地を治めていた坂部という旗本の柴田という家臣が、「(旗本が)東野が気に入り、買いたいと言っているが、ひいては自分も買いたい」という手紙があります。

<狭山茶の輸出>

 狭山茶の新しい茶業が始まって当初は江戸の茶商に変われて商売が成り立ち、その後、明治になり開港されるとアメリカに輸出していきます。地の利がよい八王子の商人たちが生糸とお茶を買って横浜に持っていく。それでこのあたりのお茶を「八王子茶」と呼んでいました。ところが、 輸出のノウハウも言葉もわからず、外国の商館に買いたたかれ思い通りの値段で売れない。そこで入間の茶業者繁田武平満義を中心に会社を作る。それが「狭山製茶会社」で、日本の最初の会社です。明治9年頃のこと。同社がニューヨークで売ったお茶の袋に貼ったラベル(写真)は、日本のコマーシャルデザインの草分けです。

          
                  繁田武平満義

         
             狭山会社の茶袋のラベル

<茶業の顕彰碑> 

狭山茶産地には5基の茶業の碑が建っています。狭山茶は産地として大きくはないが、5基もの碑がある産地はここだけです。

重闢(開)茶場碑は、入間の出雲祝神社にあり、天保3年(1832)建碑で一番古く名碑です。碑文は昌平坂学問所学長の林韑(あきら)(復斎)、扁額は松平定常(鳥取・西館新田藩主)、書は幕末の三筆と言われた巻菱湖(まきのりょうこ)です。狭山茶の由来が記されています。

          
          重闢(開)茶場碑

 北狭山茶場碑は、金子の新久の龍円寺に建っています。大きさもすごい。この碑への入口を示す道標は日本一の大きさとされています。この碑は明治20年に建てられる予定でした。伊豆の根府川石を探したが、大きな石がなくて、やっと買い付け、新河岸川を遡上 川越の扇河岸まで持ってきたが、運搬資金がなくなり、舟問屋の敷石にしていた。地元では お金をため、昭和11年になりとうとう建てたという逸話があります。

          
             北狭山茶場碑

 お茶は不思議なもので、茶天狗という言葉がありますが、それぞれの地域が自分の所が一番だという自負が非常に強い。

 狭山茶場碑も入間市の中神の豊泉寺に安政4年(1857)に建てられる予定だったのですが、「狭山」という名に金子の人たちが反対して頓挫。100年以上たって昭和46年になり実現します。この頃は狭山茶のブランドで統一されていましたので。