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龍と人間どっちがずるい?
龍穏寺(越生町)

越生町の黒山三滝近くの山中にある龍穏寺。場所も不便で、現在はひっそりとした佇まいを見せるが、歴史的な古刹だ。太田道真・道灌親子が中興し、親子の墓もある。江戸時代初頭には、家康により関三刹に任命され、曹洞宗寺院を統括する立場だった。この寺には、その名が由来する龍に関する伝説が伝わる。


  鉛色の雲を切り裂くように稲妻が走った。車窓をたたく雨粒が激しさを増していく。後数分もすれば、電車は、下車駅に到着する。電車を下りると、案の定、足留めされた人がたくさんいた。いずれにしてもこの状況では外に出るのは無理。覚悟を決めて駅で雨宿りをすることにした。それにしても最近の天気は少しおかしい。雨の降り方が尋常ではないのである。まるで龍が怒っているみたいだ。

日本列島をはるか上空から見下ろすと、その形は洋上に浮かぶ巨大な一匹の龍に見えるという。北海道は二本の角をピンと立てた龍の頭、細長い本州はくねらせた龍の胴体、四国と九州は広げた足と尾に見えるそうである。つまり日本は龍の国なのである。埼玉県は県土に占める川の面積が、日本一広いと聞いたことがある。だったら県内には、さまざまな龍の伝承が残っているはず。俄然、興味が涌いてきた。こうなったら出かけるしかない。

 

太田道灌と龍の話

伝説や民話に登場する日本の龍は、性格も姿かたちもさまざまで、龍と大蛇の区別もあいまいである。しかし、日本の民話や伝説に登場する龍の多くは、雨を呼んでくれる水の神なのである。ところが寺院に残る龍の伝承は少し違う。極めて人間的な龍が登場する。中でも龍穏寺の伝承に登場する龍は、実におもしろい。

龍穏寺は越生町にある曹洞宗の古刹である。現在この寺がある龍ヶ谷は、昔は龍が棲んでいる深い淵だったという。ここに寺を建立しようと考えた太田道灌は、ここに住む龍の地主と話し合って、10年間の約束で土地を借りることになった。証文を取り交わした龍の地主は、その証文を持って名栗の竜泉寺の池に引っ越していった。10年後、証文を持った竜が、美しい女性に化身して太田道灌のもとにやってくると、返却を求めたのだ。ところが太田道灌は証文の十の字の上に、ノの字を書いて千年にしてしまったそうである。怒った美女はたちまち龍の姿に戻ると、三日三晩荒れ狂って竜泉寺の池に帰っていったという。なんと龍は人間の悪知恵に、まんまと引っかかってしまったのである。結局自分の棲み家を人間にのっとられてしまった。

それにしてもこの龍、あきらめがよすぎるような気がする。三日三晩荒れ狂っただけで、すんなりと立ち退いてしまったのだから。でも、もう一つの龍穏寺に伝わる伝説を知って納得した。もう一つの伝説ではこうなっている。

龍ヶ谷(現在の龍穏寺)の龍は、旅人を困らせる悪い龍だったそうだ。困り果てた村人たちのことを聞いた太田道灌は、この悪龍を鎮めて欲しいと、雲崗和尚に依頼した。そして、雲崗和尚は座禅と読経により悪龍を改心させたのである。善龍となった龍は、雲を呼び竜巻に乗って昇天し、有馬山(名栗)に飛んでいって大池をつくったという。

悪龍が棲んでいた淵は、数年後平地になった。雲崗和尚は、太田道灌の援助を受けここにお寺を建てた。そして、そのお寺の名前を、龍の心が静かになったという意味から、龍穏寺と名付けた。つまりありがたい経文に、さすがの龍も太刀打ちできなかったということであろう。

  龍穏寺

 

龍穏寺の草創は奈良平安の時代にさかのぼる。山岳仏教として開かれたが、時代とともに衰微していく。応永三年(1369)足利義教が、関東管領上杉朝持(川越城主)に命じ、越生氏出身の無極禅師を一世として再建するが、戦乱により消失。文明四年(1472)に太田道真・道灌親子により再建。以来、天下の鬼道場として有名になり、天正十八年(1590)豊臣秀吉より百石の御朱印の寄進を受け、慶長十七年(1612)には、徳川家康より曹洞宗法度の制定を命じられた。寛永十三年(1636)、関東三大寺の筆頭として、格式十万石を持って寺社奉行諮問席に任じられている。しかし、明治維新の寺領没収・廃仏毀釈にあい、従来の特権を召し上げられ、大正二年(1913)に火災に遭うなど昔日の面影はないが、隠れたる名刹であることに変わりはない。

龍穏寺を訪ねて 

 越生町は奥武蔵の山懐に抱かれ、山里の風情を色濃く残した、静かで美しい町である。古くから相模(神奈川県)から上野(群馬県)を結ぶ相模街道の宿場町として栄え、名所旧跡も数多く残されている。二月の梅の開花から始まって、サクラ、ツツジ、ヤマブキ、アジサイが次々と開花して丘陵を彩る花の里でもある。

  東武越生線越生駅から黒山三滝行きのバスに乗り「上大満」のバス停で降りて、ゆるやかにカーブした道を登っていったところに龍穏寺がある。車の往来もほとんどなく、静かな山里の風情が楽しめる散歩コースである。道に沿って流れているのが龍ヶ谷川である。この川は川幅はさほど広くないが、風情のある川である。苔むした岩や倒木が散在し、時にはカワセミも姿を見せるという。二十分くらい歩くと、黒山三滝方面との分岐点に到着した。そこに立っている標識によると、上大満のバス停からここまでが1.4キロ、龍穏寺まで、ここから400メートルと記してあった。標識の近くに「下馬門」と刻んだ大石があった。かつてはここから先が龍穏寺の寺領であったようだ。その先に橋が見えてきた。龍ヶ谷大橋で、参道の入口が見えてきた。参道は道路を右斜めに外れたところから、真っ直ぐに伸びている。頭上をサクラの木が覆っている。
   

 二階造りの重厚な山門が見えてきた。この山門は天保年間(
1830-40)に道海和尚によって再建されたものである。龍穏寺は宝暦二年(1752)の火災で焼失し。天保年間に道海和尚が復興した。山門、経蔵、熊野社は大正二年の火災を免れのこったものである。中でも経蔵は埼玉県にはただ一つしか存在しない貴重の建造物である。本堂に向かって右側の石段を登ったところが、太田道真・道灌父子の墓所になっている。道灌は文武両道にすぐれた名将として知られているが、山内上杉の策略により、主君である上杉定正に文明十八年(1486)神奈川県伊勢原市で謀殺される。越生の地にすんでいた父道真により分骨され、今もこの寺に眠っている。

  
              太田道真・道灌の墓

不可思議な龍の魅力

 

「龍なんかいるわけないじゃない。姿を見た人なんていないでしょ」と、ほとんどの人は思っている。事実その通りだと私も思う。ところがである。驚くなかれ実際にみたひとがいるのである。しかも昭和の始めにだ。奈良県横井村の深地山で、黒い龍が昇天するのが目撃されている。おまけに、龍の鱗や尻尾まであるというのだから驚きである。龍の鱗は静岡県の寺院に、龍の尻尾は大分県の寺院に今も大切に保管されているという。

事の真偽はともかくとして、日本人は龍が好きである。河童や天狗、鬼など、あまたある日本の妖獣のなかで、ダントツの一番人気なのが龍である。神社や寺院に行けば、龍の彫刻や天井画に出会うし、みこしの飾りといえば龍である。つまり、日本人は龍に寄り添って暮らしてきたのである。そして日本人の心の中では、いつのまにか空想上の存在から、この地上に寓居を持つ存在へと変わっていったらしい。

 ところが、人間の生活空間が拡大するのにともなって、龍は徐々に追い詰められてゆく。人間による開発の手は、森林を切り開き、沼地を干拓していった。それによって、龍が棲むという沼や淵がどんどん減少し、日本の自然が変わっていくことになる。その結果、日本の農業が衰退し、工業化の波が日本人の心にさらなる変化をもたらした。気がついてみたら、いつのまにか龍の存在を忘れてしまったのである。つまり、われわれ人間は、龍を追い出してしまったのだ。

しかし、龍はこのまま消えてしまったわけではなかった。今までと違った世界に戻ってくることにしたのだ。それがゲームやファンタジー小説の世界である。龍という稀有なキャラクターは、人間の心をしっかりと捕まえて見事に復活してきた。私自身も例外ではない。書店で「龍」の文字が入ったタイトルを目にすると、思わず買ってしまうのである。それが何故なのか判然としない。でも強いて理由をつければ、祖先からうけついてきた「DNA」のせいかもしれない。

 龍とはなんとも不可思議な幻獣である。(岩瀬翠)

 

●交通 東武東上線 越生駅下車 黒山行きバス上大満下車 徒歩25

(本記事は『東上沿線物語』第31号=2010年9・10月に掲載された記事を一部改変したものです)