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沿線歴史点描⑤
幻に終わった東上線の都営三田線乗り入れ

山下龍男

2008年6月に東京メトロ副都心線が東上線に乗り入れる。これに合わせて、座席定員制の通勤電車導入などダイヤの大幅改正も予定されている。こうしたお祭り気分に水を差すようだが、地下鉄乗り入れといえば、都営三田線乗り入れ計画の撤回という、東上線にとっては苦い思い出がある。40年以上前の出来事なので、昔話と思ってお読みいただきたい。

混雑解消の切り札、地下鉄相互乗り入れ

1960年代前半、高度経済成長によって東上線も沿線人口の急増とそれに伴う混雑率の悪化に悩まされていた。昭和35年以来、260%という今では考えられない混雑率(下板橋・北池袋間の朝ラッシュ時の数値、平成17年は136%)が続いていた。昭和3712月にはラッシュ解消をめざす抜本的なダイヤ改正で11%の輸送力アップを図るも効果はなく、年明けには午前745分から815分池袋着となる列車への普通乗車券発売を停止し定期券乗客以外の締め出しという荒技を発動。それでも効果は上がらず、昭和40年に至っても混雑率は262%だった。

その解決策として期待されたのが地下鉄との相互乗り入れだ。すでに昭和37年、東武本線において地下鉄日比谷線との相互乗り入れが始まり、混雑緩和に大きな効果を発揮したことで、東上線でも地下鉄相互乗り入れを実施する機運が生じていた。昭和37年、運輸大臣の諮問機関である都市交通審議会の答申で、西馬込方面から都心を通過し板橋本町から志村(現・高島平)に至る主路線と、板橋本町から東上線の上板橋に至る分岐線からなる地下鉄六号線(現・都営三田線)の計画が発表された。2年後の昭和39年の答申で、分岐線計画は六号線終点の志村から東上線大和町(現・和光市)への相互乗り入れに変更。これを受けて東武鉄道は昭和3912月に志村・大和町間四・八キロの新線建設免許を取得。昭和44年開通を目指し、大和町内に「吹上観音駅」、「新倉駅」を設置し、大和中学校付近で東上線に合流する計画を策定した。大和町側でも昭和402月、町当局・議会などによる六号線建設促進同盟が組織され、用地買収を支援することとなった。

昭和41年春には東武鉄道が新倉地区で現地説明会を開催し用地買収に入り、昭和43年には予定地の地主70名のうち3名を除いて買収を終えた。この間、六号線は昭和43年暮れに巣鴨・志村間が開通。あとは東武鉄道工事区間での作業開始を待つばかりとなった。しかし、その翌年、すなわち当初の完成予定年度である昭和44年になっても東武側は一向に工事を始めない。大和町側は、この年、東武鉄道に工事遅延の理由説明を求めた。これに対し東武側は「未買収の土地問題が解決しない限り着工しないが、巣鴨・大手町間開通までに延伸を完成させたい。未買収の土地は強制収容に訴えることも考えている」と回答するが、その後「強制収容」を発動することもなく年月だけが経過していった。

六号線乗り入れ撤回へ

和光市議会(昭和45年市制施行で和光市となる)は、昭和469月に交通対策特別委員会を設置。12月の定例会で「高速地下六号線市内乗り入れ早期実現についての決議」を満場一致で可決し、運輸大臣をはじめ関係各機関に送付。こうした市議会の動きに対し、昭和471月、東武鉄道の根津嘉一郎社長が埼玉県庁に当時の栗原知事を訪ね、「和光市の了解が得られるなら路線認可を取り下げたいので、斡旋してほしい」と協力を要請。その理由として東武側が挙げたのが「地下鉄八号線が池袋・成増間まで新設されると利用者が同線に流れ、六号線の価値が薄れる」というものだった。六号線乗り入れ撤回問題には地下鉄八号線(現・有楽町線)計画が絡んでいたのだ。

和光市側は、この年2月、栗原知事の斡旋を受け入れ、六号線(都営三田線)と東上線相互乗り入れは幻に終わったのである。この直後の3月に、都市交通審議会第十五号答申があり、六号線は高島平から北上し浦和市西部に延伸させるとしたが、これは今も実現の見込みが立っていない。

東武側が六号線(都営三田線)乗り入れを撤回した背景には、現在の有楽町線に相当する八号線の計画具体化があった。八号線への対応は和光市側でも進められており、遅くとも昭和44年には、六号線建設促進運動の一方で、八号線の和光市延伸運動を開始している。六号線乗り入れ計画白紙撤回問題は、八号線(有楽町線)計画の進展という面からも語られるべきなのである。

 (本記事は「東上沿線物語」第10号(2008年2月)に掲載した記事を一部修正して、2019年10月に再掲載しました)