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沿線歴史点描③
東上線消えた線路

山下龍男

車両派、時刻表派、歴史派など、鉄道マニアも多くの派に別けられる。なかでも、廃線を追い求める「廃線派」は根強い人気を誇っている。東上沿線にも、そうした人々が喜びそうな廃線がいくつかある(地図参照)。

     

それらは成立事情によって2種類に別けられよう。ひとつは戦争の激化により沿線に移転してきた軍事施設への貨物搬入・搬出の路線、そしてもうひとつは工場や採石場への専用線である。前者は戦争の終結、後者は貨物の自動車へのシフトによって消え去り、いまや廃線マニアのみの知るところとなってしまった。今回はこれらのうち戦争に際して作られた路線について語ってみたい。

啓志線

下り電車に乗って上板橋を出て踏切を通過すると、まもなく左手に、東武鉄道が昭和47年に開発した上板橋サンライトマンションが見えてくる。この敷地こそ啓志線の分岐地点である。

啓志線とは妙な名前だが、これはGHQ(連合国軍総司令部)で交通政策を担当したヒュー・ジョン・ケーシー(Hugh John Casey)少将にちなむものである。これからもわかるように、啓志線とは戦後の占領軍に関わる路線だった。

大規模ニュータウンとして生まれ変わった練馬区西部の光ヶ丘団地が、昭和48年まではグラントハイツと呼ばれる広大な米軍住宅だったことを覚えている方も多いと思う。このグラントハイツ建設のために敷設されたのが啓志線なのだが、じつは戦時中、日本軍の手で途中まで建設されていた。練馬区の国道254号線沿いに今も自衛隊の練馬駐屯地があるが、ここは戦時中、陸軍第一造兵廠の練馬倉庫があったところで、その物資輸送のために昭和18年に上板橋駅から専用線が敷設されていた。

のちのグラントハイツとなる場所は、戦時中に首都防空のため陸軍の飛行場がつくられたが、敗戦とともに占領軍に接収され、米軍将校の住宅建設が開始された。その資材運搬のために、陸軍の旧練馬倉庫まで伸びていた線路がグラントハイツまで延伸されたのである。

工事は国鉄が担当し、運行は東武鉄道に委託された。昭和21年3月に開通した啓志線は、資材の運搬だけでなくグラントハイツに住む米軍人とその家族の輸送にも使用され、池袋~グラントハイツ間を専用のガソリンカーが往復した。しかし旅客輸送は昭和23年2月に停止され、その後はもっぱら貨物輸送に利用されるが、これも昭和32年8月に停止された。その後、東武鉄道は啓志線を買い取って、東上線の支線として活用する計画を持っていたが、実現には至らず、昭和40年代に入ると、かつての啓志線沿線は急速に宅地化が進み、いまやその痕跡をとどめるものはなにも残っていない。

朝霞から被服分廠へ

現在の和光市から朝霞にかけては、昭和10年代に軍の施設や軍需工場が大挙して移転してきた。昭和15年に、赤羽から朝霞に移転してきた陸軍被服分廠もそのひとつである。このとき、原材料搬入と製品搬出のため、朝霞駅のやや池袋寄りの地点から、下り進行方向左に向けてカーブを描きながら被服分廠へと向かう線路が敷設された。引き込み線

終戦とともに、被服分廠はキャンプドレークとして米軍の施設となる。東上線からの引込み線は依然として利用されていたが、日本軍・占領軍時代を通じて旅客輸送を行ったことはなく貨物輸送にのみ使用された。

昭和48年、キャンプドレークは日本に返還されるが、昭和50年代末期までは、分岐してカーブを描きながら基地へ向かう線路の跡地が車窓から見えたものである。その後、朝霞駅南口一帯は区画整理と駅前整備ですっかり一変し、かつての線路跡は地上から完全に消え去った。

山間に伸びる鉄路

軍事施設は思わぬ山の中にも設けられた。現在の寄居町南部、小川町と接する三ヶ山地区では、丘陵と谷を利用して火薬・航空燃料の加工と貯蔵のための陸軍航空本廠鉢形航空廠が設けられ、東上線男衾駅から3キロメートルに及ぶ専用線路が敷設された。線路は東上線が男衾駅を発車して間もなく左方向に分岐し、南西に向きを変え畑の中を直進し、現・国道254号線を突っ切り、三ヶ山の丘陵が近づくと、その山裾を回るようにして火薬庫の散在する谷に入っていった。

鉢形航空廠もまた敗戦とともに占領軍に接収された。昭和22年に米軍が撮影した空中写真を見ると、航空廠跡は整備が行き届いているので、戦後もしばらくは使用されていたようだ。その後、地元に返還されたが、その時期は明らかではない。

上記の三線以外に戦争が与えた東上線への影響といえば、松山飛行場建設に伴う武州松山(現・東松山)~武蔵嵐山間の4キロメートルに及ぶ線路付け替え工事があるが、これについてはまた別の機会に譲りたい。

  (本記事は「東上沿線物語」第6号(2007年10月)に掲載したものです。