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沿線歴史点描②
東上線創世記

山下龍男

今回は、時代を大きく遡って、毎日お世話になっている東上線が開通するまでのいきさつをたどってみよう。

 今回は、時代を大きく遡って、毎日お世話になっている東上線が開通するまでのいきさつをたどってみよう。 東上線の開通を語る上で、今も昔も沿線の最大都市である川越を欠かすことはできない。川越と東京を結ぶことから東上線建設計画はスタートすると言ってよいだろう。

    

 

江戸時代以来、川越が武蔵国北西部の中心都市として栄えたのは、町自体の商工業の集積度が高かったこともあるが、それよりも西武蔵一帯の流通の要だったことが大きい。

川越は新河岸川舟運と川越街道という二本の動脈で東京と結びついていた。この動脈を通じて行き来する物資は、川越だけで生産されたり消費されたりするわけではなかった。川越の先にある、東松山や小川町といった比企地方はもちろん、現在の所沢・狭山・入間、飯能、さらには青梅にまで運ばれていったのである。当時の特産物である青梅の石灰、飯能の西川材などもいったん川越に運ばれ、川越から新河岸川の舟運によって江戸に運ばれていった。川越は奥武蔵への物資輸送の中継点だったのである。

鉄路から取り残された川越

こうした川越の優位性を崩したのが鉄道の開通である。

まず日本鉄道(現高崎線・東北線)が1883(明治16)年に開通し、六年後の1889(明治22)年には新宿から立川・八王子を経て甲府へ通じる甲武鉄道(現中央本線)が開通する。貨物の流れは必然的にこの二つの鉄道に引き寄せられていった。その流れをさらに加速させたのが、1895(明治28)年に全通した、現在の本川越から所沢・東村山を経由して甲武鉄道の国分寺停車場に至る川越鉄道(現在の西武新宿線と国分寺線)だ。これによってそれまで川越を経由して東京に運ばれていた奥武蔵の物産の多くが、入間川(現狭山市)駅や所沢駅から川越鉄道を通じて国分寺駅経由で東京へと運ばれるようになった。

この川越鉄道設置に際し、川越商人は誰一人として株主として参加していない。これは川越商人が鉄道に理解がなかったということではない。逆に鉄道の威力を知っていればこそ、自分の商売を危うくする鉄道事業に投資する気にはなれなかったのだろう。しかしこのまま手をこまねいていれば、川越の経済的地盤沈下は止められない。

幻の鉄道計画

ここで具体化してきたのが、新しい鉄道の建設である。川越では、先に述べた川越鉄道に続いて、1906(明治39)年に川越・大宮間に川越電気鉄道が開通しているが、いずれも東京と直接結ばれてはいなかった。すなわち、川越と東京を正方形の対角上のコーナーとするなら、川越鉄道~甲武鉄道、川越電鉄~日本鉄道というルートはいずれも四角形の辺をたどるもので、もっとも短距離で済む対角線ルートの鉄道がなかったのだ。しかもこのルートこそ、川越街道と新河岸舟運という東京と川越を結ぶ古くからの大動脈と重なるルートであり、沿線の人口の集積もあり、そして地域の人々が鉄道の開通を心待ちにしている地域でもあった。

この川越・東京最短ルートを通る鉄道建設計画は、1895(明治28)年に川越鉄道が開通した頃から矢継ぎ早に出願されるようになる。ここにその代表的なものを上げてみよう。

①毛武鉄道(明治288月出願)

②川越鉄道延伸計画(明治2812月出願。川越鉄道を川越から新河岸川沿いに下り東京市内に入り万世橋に至る)

③中武鉄道(明治298月) 

④京越鉄道(明治358月提出)

⑤日本興業鉄道(明治3512月提出)

以上の計画はいずれも不許可あるいは免許失効となり、実現には至らなかった。しかし日本興業鉄道の発起人千家尊賀、内田三左衛門、京越鉄道の発起人綾部利右衛門、星野仙蔵は後に東上鉄道の発起人となる。幻の鉄道計画も現実味のある事業へと変化しはじめていた。

また、先に述べた綾部利右衛門は川越・仙波河岸の、星野仙蔵は福岡河岸のそれぞれ船問屋の主人であることからもわかるように、東京と川越をダイレクトに結ぶこれらの鉄道計画に、川越商人や新河岸川舟運の船問屋たちは競って発起人として参加した。川越鉄道設立時の冷たい態度から一変したのである。

東上鉄道の出発

1903(明治36)年1223日、東上鉄道株式会社仮免許申請書が提出された。この時の発起人は日本興業鉄道の発起人でもあった千家尊賀、内田三左衛門の二人以外に、現在の新座市、富士見市、三芳町あたりの資産家・有力者十名が名を連ねている。

しかし敷設免許は下りたものの資金集めに難航したようで、結局、福岡村(現上福岡市)の星野仙蔵を頼る。星野は当時衆議院議員を務めており、その議員仲間で東武鉄道社長でもある甲州財閥の総帥、根津嘉一郎を引っ張り出した。

1910(明治43)年には根津嘉一郎を含め東武鉄道経営陣から四人が東上鉄道発起人に加わり、東上鉄道創立事務所も本所区の東武鉄道本社内に置かれた。鉄道という金のかかる事業は、やはり地元の資本力のみでは進められない事業なのだ。先に述べた東上鉄道に先行する計画が幻に終わったのも、資本力の不足が大きな原因だった。

地元の発起人で監査役として経営陣に加わった星野仙蔵は、地元の上福岡だけでなく鶴瀬、新河岸、川越などで難航する土地確保に尽力した。引又河岸(現志木市)で舟問屋を営んでいた井下田慶十郎も株主に加わり志木駅開設に尽力する。井下田は、死後、その戒名を「交通院慶運東上居士」とするほど東上鉄道開通に情熱を傾けた。

星野や井下田、そして内田三左衛門や上野伝五右衛門といった地元資本家は、株数からすれば東武鉄道関係者をはじめとする東京資本に比べて少なかったが、彼ら地元資本家の協力がなければ東上鉄道開通は不可能だったに違いない。実際、彼らの中には家産をも傾けかねないほど情熱を注ぎ込んだものもあったという。

こうした努力が実を結んで東上鉄道が開業したのは、仮免許申請から11年を経過した1914(大正3)年5月1日のことである。

 (本記事は「東上沿線物語」第4号(2007年8月)に掲載したものです。