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沿線歴史点描①
東上線、幻の駅
山下龍男


 毎日毎日お世話になる東上線。しかし通勤電車という役目柄、旅情とは無縁だし、乗客も、居眠りしている者以外は読書か携帯メールに夢中で、今さら車窓の景色に目をやる者などほとんどいない。 しかし、1914(大正3)年5月の開通以来93年という年月を重ね、東上線もさまざまなエピソードを生み出している。そんななかから、興味深いと思われるものをいくつかを選んで、これからお話ししていこう。

 

消滅した駅

表を見るとわかるように、東上線の歴史は駅の増設の歴史であるともいえる。各線区の開通時における駅の合計が18駅、それが今や37駅とほぼ2倍となり、右肩上がりで増え続けてきたわけだが、その中でたった2駅、廃止されてしまったものがある。

幻の駅、田面沢

その一つが、1914(大正3)年5月、東上線(当時は東上鉄道)第一次開業時の終点駅だった田面沢(たのもざわ)である。現在の川越市・霞ヶ関間にあった駅で、開業の2年後、東上線が坂戸(当時は坂戸町)まで延伸されたのを機に廃止。駅があったのは、川越市(当時は川越町)駅を発車した東上線が水田地帯を走り抜け入間川鉄橋にさしかかる手前あたりだが、今はなんの痕跡もとどめていない。

なぜこんな田んぼの真ん中にたった2年だけ駅を置いたのか。川越市駅を仮の終点としておいても不都合はなかろうと思ったが、貨物需要を当て込んだ駅だったようだ。開業した初年度には、早くも貨物発送量5万5千トン。当時の埼玉県内における東上鉄道全体の貨物発送量中、約86%を占めている。

 いったい何を運んでいたのか。『東武鉄道百年史』には「入間川舟運と機回り(機関車の付け替え)に利用」とあるが、入間川舟運はこの頃、川越鉄道(現在の西武新宿線・国分寺線)に荷物を奪われ機能を停止していた。5万5千トンの中身は、おそらくは入間川で採れる川砂利だったと想像される。

 前述の川越鉄道の狭山市駅(当時は入間川駅)では毎日100トンあまりの川砂利が発送されていたという(柳井潔著『百歳を迎える川越鉄道』)。また田面沢駅廃止後、入間川対岸に開業した霞ヶ関駅(当時は的場駅)も、田面沢駅の貨物を引き継ぐように、開業翌年の1917(大正6)年から1934(昭和9)年まで東上線貨物発送量の県内トップの座を守る。さらに、1920(大正9)年から昭和30年前後まで霞ヶ関駅から入間川河原まで砂利運搬専用の軽便鉄道が存在していたことからも、荷物の主体が砂利だったことはあきらかだ。

砂利の出荷と東上鉄道延伸基地として活躍した田面沢駅も、いまは一面の水田地帯に戻り、その面影の片鱗さえとどめていない。

戦災で消えた金井窪駅

敗戦濃厚となった1945(昭和20)年の4月13日夜、城北地区を襲った大空襲は東上線にも甚大な被害をもたらした。とくに池袋・大山間の被害がすさまじく、池袋から金井窪までの駅がすべて焼失してしまった。

ここでまた金井窪なる聞き慣れない駅名が登場する。これがもう一つの消滅した駅で、下板橋・大山間の山手通り陸橋とその100メートルほど池袋寄りにある踏切との間にあった。1931(昭和6)年の開業当時、下板橋駅との距離はわずか400メートルほどしかなかった。ちなみに当時の下板橋駅は、現在の改札口がある踏切をはさんだ反対側、東武デパートの配送センターがあるあたりだった。

金井窪駅の東に接する踏切を通る道は、江戸時代に、中山道の裏道として、板橋宿と江戸西郊の高田・戸塚・牛込方面とを結ぶ生活道路として利用されていた。金井窪駅が開業した頃も金井窪銀座商店街として栄えており、周辺駅から電車で訪れる買い物客も多かったという。(山下徹・著「幻の金井窪駅」『板橋史談』190号による)。

空襲で焼けた駅のうち、北池袋(当時は東武堀之内)駅と金井窪駅はそのまま営業休止となる。北池袋駅は1951(昭和26)年に再開するが、金井窪駅はついに復活することはなかった。廃止された金井窪駅の繁栄を引き継ぐように、戦後になって急速に商業地域として発展したのが、隣の大山駅である。

上り電車で大山駅手前の踏切を通過すると、板橋区随一の商店街に成長したハッピーロード大山(旧大山銀座)の賑わいを眺めることができる。それからものの1分、山手通りをくぐり抜けると、金井窪駅跡の踏切だ。二つの踏切の賑わいの落差を見るにつけ歴史の無情さを感じざるを得ない。

(本記事は「東上沿線物語」第2号=2007年6月に掲載したものです)