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大野松茂元衆院議員
ダイオキシン対策に先鞭、菅総務相(現首相)と地方創生推進
今、川越総合高校百周年事業、高麗郡建郡1300に尽力


 埼玉県議会議員、狭山市長を経て、衆議院議員(埼玉9区)を4期務めた大野松茂氏。市長時代はいち早くダイオキシンの出ないゴミ焼却炉を建設、国会でも環境対策を推進した。総務副大臣(第一次安倍内閣)、官房副長官(第一次安倍改造内閣)、官房副長官(福田内閣)など要職を歴任、総務副大臣時は菅義偉大臣(現首相)とともに地方創生に取り組んだ。当時の経験から菅首相を高く評価する。大野氏は
84歳の今も、母校の川越総合高校の百周年記念事業、高麗郡建郡1300年記念事業など、地域貢献事業に情熱を持って取り組んでいる。 
 

     大野松茂(おおの・まつしげ)

 1936年、埼玉県入間郡入間川町(現狭山市)生まれ。54年県立川越農業高校(現川越総合高校)卒。74年、狭山市立中央公民館長。79年埼玉県議会議員(2期)。86年狭山市長(2期)。94年衆議院議員(4期)。総務副大臣(第一次安倍内閣)、官房副長官(第一次安倍改造内閣)、官房副長官(福田内閣)。2009年政界引退。川越総合高校明星会会長、一般社団法人高麗郡建郡1300年記念事業委員会理事長、埼玉県産業教育振興会会長。

 38歳で公民館長

―元々農家なのですか。

大野 養蚕農家でした。長男ですから農業を継ぐのが当然で農業高校に行って、農業を自営していました。高校で養蚕を専攻しましたが、周りがすっかり開け環境の変化で蚕を飼えなくなって、乳牛をやって、酪農も環境になじまなくなって、熱帯植物の温室をやりました。

―若い時から政治に入る気持ちがあったのですか。

大野 特にそれはなかったです。私は、昭和49年、38歳の時に狭山の中央公民館長をやりました。農家をやりながら公民館でがんばっている時に、狭山市の県会の定数が1から2になったものですから、県会に出ろと皆さんにすすめられたのが政治に手を染めた始まりです。

―それから県議、市長、国会と進むわけですね。

大野 昭和54年に県会議員になりました。2期目の途中で前の町田市長が突然亡くなり、市長選に出ました。それで2期やり、3期目の選挙に負けまして、充電中に衆議院の選挙制度が小選挙区制に変わり小選挙区から出なさいとおすすめいただいて。衆議院議員で4期13年お世話になったということです。

―若くして公民館長になるくらい地域活動に熱心だったのですね。

大野 青年団をやったりはしていました。昭和37年に、皇太子殿下のご成婚記念で青年海外派遣事業というのがあり、各県から選ばれて私はその時東南アジア10カ国を80日間回った。そんなこともあり、いろんなお手伝いもさせてもらいました。公民館長も最初はおことわりしたんですが。

ダイオキシンを出さない焼却炉

―狭山市長時代の実績は。

大野 狭山市はちょうど人口10万になり、急激に人口が増えていました。川越狭山工業団地があって基本的な財政力は支えられていましたが、一番遅れていたのはまちづくりでした。区画整理もやっていません。私は県議の立場で他の市もみて痛切に感じていました。市長になってまず取り組んだのが狭山市駅の東口・西口の再開発・区画整理です。私は、市長として「まちづくり元年」を掲げ3つのリーディング施策を掲げました。第1は狭山の顔、中心核を作る狭山市駅東西口の開発。第2に、水と緑と道のネットワークを作ろうと、水と緑に合わせて道路を整備。3つ目が、将来の長寿社会を控えて生涯健康、生涯福祉、生涯学習をすすめるまちづくり。それぞれ8年で成果を上げることができた。

 その中で大きなテーマがゴミ問題でした。まちづくりにはゴミ処理の問題も同時に解決しなければなりません。将来的に心配がないような処理施設をいう構想を持って、稲荷山公園駅の前にクリーンセンターという焼却施設を作った。これは元々はジョンソン基地の跡地利用計画で防衛省が手放して狭山市・入間市が使えるという構想です。その頃すでにダイオキシンの騒ぎはありました。ダイオキシンを出さない焼却炉を作ろうと努力した。ダイオキシンを抑制した焼却炉は従来のゴミ処理とは違った方法でコストも高めです。それで反対の方もいました。行政は何をやっても半分は賛成、半分は反対なんです。これが市長選の争点にもなり、私は1000票ちょっとの差で負けました。

 


1回生で党のゴミ問題の部会長

―しかし、この経験から国会議員になってもゴミ問題に取り組むことになるわけですね。

大野 選挙には負けたんですが、私が主張した焼却炉はダイオキシンが出ないということで自信をもって作りました。衆院に出たのは平成8年10月ですが、議員になってみたら、所沢、狭山、入間、川越の武蔵野地域には産業廃棄物処理の施設が林立しており、ダイオキシンの大騒ぎ。ダイオキシンは焼却炉の焼却方法により、高熱で燃やせば完全燃焼するので出ないが、温度が低いと出る。その頃になってみなさんが気づいた。ダイオキシンの出る焼却炉をなくすべきだと国が動いた。私は市長としてゴミ問題は経験があり、市長会でもゴミが次の時代の最大の課題だと研究委員会も設置するなど詳しかった。国会議員になり最初に予算委員会でダイオキシン、ゴミ問題を質問した。1回生だが、党のゴミ問題の部会長などをやらされて。

―解決のためどういう方策を。

大野 一番の問題は産廃がこの地域に50何カ所も集中していることでしたが、業者もいなくては困る。業者が新しい完全燃焼の焼却炉でやってくれれば問題ない。ゴミの行政は、厚生省、環境庁、農林省も関係する。しかし当時は縦割りでやっている。それが間違い。同じテーブルについて解決策をと、初めて三省庁の対策会議ができました。ダイオキシンの基準を作るとか、循環型社会に向けた法律を作るとか。市長の時代の苦労があり国会に行き対応ができたと思っています。

―狭山のゴミ処理施設は後になり見直されたのではないですか。

大野 市町村の焼却炉を実際に調べてみたら、埼玉県内でダイオキシンが出ない焼却炉を持っていたのは狭山と坂戸だけでした。私が市長の時作った焼却炉と、私の主張に賛同した坂戸市の宮崎雅好市長(当時)が関越自動車道から見えるところに作った焼却炉だけ。他の市町村はみな炉の方式を変えさせられたが、うちの市は余裕をもって作ったので、他の市のゴミをしばらくの間燃やしてやった。市長時代はゴミ問題でずいぶんいじめられましたが、今狭山はゴミでは優等生であるわけです。

―自民党の環境部会でも委員長をされた。

大野 やはり、あの時代は、ゴミだけでなく、川の汚染とか、市民の理解が進んでおらず、対応に遅れがあった。それぞれのお宅で流す水自体が汚染されたそのまま流すから、川に魚が住めなくなる。私の議員時代は、自分が流した水がどこに行っているか知っていますかと、ずいぶん皆さんにお話ししました。

―官房副長官という要職を経験されていますね。

大野 第一次安倍内閣、それと福田内閣。2人の総理につかえました。副長官は官房長官と総理を支えるわけですから、特命事項がいっぱいあり、何をやりましたというのは言えないですが。

 

菅総務相と組んで地方創生、ふるさと納税

―総務副大臣として地方創生にも取り組まれた。

大野 第一次安倍内閣で総務の副大臣をやりました。その時の大臣が菅さん(現総理)です。菅さんも地方の出でたたき上げの人ですから、地域のことをよく知っている。一緒にやったのは地方創生です。ふるさと納税もそう。税の構造が変わるわけですから総務省内部も反対。でも菅さんは、地方をよく理解している立場で主張してくれた。その時のことが、今の地方創生につながっている。

―菅総理について。

大野 よくたたき上げと言いますが、今までの内閣は総理にしても2世、3世の人が多い。たたき上げ、地方議員から上がってきた人は自民党の中でもごく少ない。野党も世襲の人が多い。世襲の人は教育を受けている時から違う。世襲の人はいいなと思います。

菅さんは、秋田の豪雪地帯の出。高校は家から通えない。高校出て集団就職で横浜に来て、そこで働いて、大学の夜間部に通った。市会議員から衆議院議員になった。世襲議員とは違い、本格的にドブ板選挙をやった。今の若い人はドブ板選挙と言っても知らない。ドブ板そのものがない。ドブ板踏んで一人一人の有権者に会って握手する。そういう経験をした人がますます少ない。議員のタイプでも都市型の選挙なら駅前に立ってビラ配るだけで選挙をやってしまう人もいる。私たちの時には一軒一軒歩くことが選挙だと思っていた。菅さんはそれを実践した人です。派手さはないが、コツコツとなさる人。今回も他の新聞社から取材があり、「菅さんはいつ総理になると思いましたか」。私は「私は長くお付き合いしたが、菅さんは総理大臣を目指しているなどと全く感じない人だった」と答えた。今回安倍さんの突然の辞任という形で総理になることになったが、こういうことがなければならなかったかもしれません。だけどできる人。裏方で尽くした人ですから。私は菅さんは時代が要求して総理になったと思います。

安倍さんは一つ一つのことに情熱が

―安倍長期政権についてはどう考えますか。

大野 それは、安倍さんの一つ一つのことに対する情熱です。よく安倍さんは説明が足りないと言われたが、私はそうは思いません。本当に細やかな気配りをしながら、主張すべきことはきちっと主張する。時にはタカ派だと言われるが、信念をもって主張したことがこれだけの長期政権につながったと思います。一強支配と言われるが、リーダーシップがあったから安定した政権が生まれた。

川越農業高校、職業高校から専門高校へ

―川越農業高校(現川越総合高校)の出身で、現在も同窓会の会長をされています。高校の紹介をしていただけますか。

大野 川越総合高校は大正9年にお蚕の学校、川越農蚕学校としてできました。その頃は生糸が日本の国力の元で全国で養蚕の技術者が必要でした。国は各県に養蚕の学校を作るようにお触れを出し、川越養蚕学校は全国で8番目の県立学校として誕生しました。近辺は養蚕の盛んな地域で、卒業生は養蚕の技術者、農業後継者としての責任を果たした。それが昭和の10年頃、世界不況になり、生糸の需要が落ちた。蚕だけでなく野菜とか果実も学ぶということで、農業学校に衣替えし、それが戦後の学制改革で川越農業高校になりました。

―総合高校とは。

大野 元々高校は普通高校と「職業高校」と分かれていたんですが、私は職業高校という呼び名に県会議員の時から反対でした。レッテルを貼られると、普通課程の方が学力が上で職業高校はあたかも低いかのような印象を与えます。ところが日本の戦前の教育で、行政の指導者は旧制の中学から大学に行った人が多いが、産業を支えたのは、農業や工業、商業の教育を受けた人たちです。職業高校に行った人たちが地道に地域を支えた。私自身、農家の息子で農業高校に行きましたが、後継ぎはほぼ農学校に行ったものです。農家の長男でも学力は川越中学や川越高校に負けない子がいっぱいいたわけですが、農家の倅だからとそういう選択をしたのです。

だから私は、農業、工業、商業、看護や福祉など専門に学んでいる人たちを、職業高校でなく「専門高校」という言い方に変えましょうと県議の時代から主張していました。それぞれの分野でスペシャリストになり、国家資格を取ったり、いろいろなことができる。平成7年に「専門高校」という呼び名になりました。参議院議員で後に文相を務めた有馬朗人さんが非常に熱心でした。同時に普通高校と専門高校だけでは済まない、3つ目の学科として作った、普通課程の教育と専門課程の教育をミックスしたのが総合高校です。

 

川越総合高校は平成8年に総合学科制の高校になってちょうど25年になります。農業高校から総合学科制の高校になりましたが、それでも農業を主体とした総合学科です。だから川越総合高校は今でも農場は6ヘクタール持っており、生徒はもちろん栽培、飼育の実習はします。

―今年は創立100周年に当たるのですか。

大野 100周年記念事業を検討する中、ここには蚕があったという蚕の歴史や伝統や文化を残すことになり、今養蚕の資料館を作っています。川越総合で蚕の授業が終わって30年になりますが、それまで県内で一番の養蚕室を持っていた。1階だけで120坪の2階建てが2棟あった。今養蚕農家は県内でわずか18軒しかない。蚕の道具を集めています。

 

高麗郡建郡1300年記念事業委員会

―高麗郡建郡1300年記念事業委員会とは。

大野 高麗郡ができたのが716年。関東地方の7つの国に分散していた高句麗からの渡来人を今の日高市を中心とする地域に集めて、この地域の開発をしなさいと命じた。地域を高麗郡と名づけた。今の日高市、飯能市、鶴ヶ島市は全部高麗郡、これに入間川の北側、入間市、狭山市、川越市、坂戸の一部で高麗郡を形成した。しかし、今から120年前に高麗郡は入間郡と合併して高麗郡の名は消え、高麗郡の歴史そのものも記憶が薄れている。2016年が建郡1300年にあたり、1300年の貴重な歴史を皆で思い出そうと。先人のご苦労のおかげで地域の発展がある。養蚕もそうだが渡来人の伝統の技術を受け継いで地域の今日があるということで、1300年の記念事業を進めようと、民間の取り組みとして、高麗郡建郡1300年記念事業委員会というのを立ち上げ、今も活動しています。元は日高市の商工会の会長が初代の委員会の会長で、私は当時国会議員の立場で趣旨に賛同して取り組みをしていましたが、商工会長から商工会長では他の市へ話をかけにくいと依頼され、私が会長になりました。 

最大の行政改革である町村合併

―この地域の課題は何だと考えますか。

大野 この地域は豊かな自然環境に恵まれ、産業も伝統産業が残り、それに加えて、首都圏 圏央道の沿道開発、西武鉄道、東武鉄道のネットワークがあり、たくさんの可能性をもっています。ただ、その可能性をどう引き出していくかが政治課題です。今までは、人口が右肩上がりで経済も発展したが、これからは人口が増えない時代。ある市町村で人口が減っても町長の責任ではない。どうしようもない。だから、行政改革も必要。支出分野、行政の仕組みも右肩上がりが前提に作られている。その大前提が崩れたので地域の課題は何かをみんなが気付かないといけない。最大の行政改革である町村合併も必要だと思う。私は国会議員の時代から、町村合併の委員長などしてきましたが、やはり必要だと思います。今どこの市も、今まで作った公共施設をどう維持するかでみんな苦しんでいる。それは市民会館一つとっても、大きな施設が一つの町に本当に必要なんですかと、改めて問われている。

 

入間川の上に見る富士山

―お年は。

大野 84歳。今年は7回目の子(ネズミ)年の年男です。

―お元気な秘訣は。

大野 忙しくしていることがいいのではないですか。

―この地域で好きな場所は。

大野 入間川と高麗川の流れ。特に入間川の土手から川の上に富士山が見える。この眺めはすばらしい。他の地域にない自慢だと思います。

           (取材2020年10月)