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 金子十郎の兄 金子高範に始まる難波田氏の居城 
難波田城 
(富士見市)
 

金子十郎の兄、金子高範は、今の富士見市南畑に移り、難波田氏を名乗った。拠点とした難波田城は、復元され、周辺は公園となっている。難波田城資料館の早坂広人学芸員にお聞きした。

       (本記事は「東上沿線物語」第27号=2010年1・2月に掲載されました)

承久の乱の宇治川の合戦で高範は討ち死に

―難波田氏はいつからこの地に。

早坂 いつから難波田氏と名乗ったのかは定かでないのですが、系図から元祖は金子小太郎高範です。承久の乱の宇治川の合戦で高範は討ち死にしていることが文献に残っています。おそらく討ち死にの恩賞として子孫に難波田が領地として与えられ、それで難波田氏を名乗るようになったのではないかと思われます。

―難波田は今の富士見市南畑と一致しているのですか。

早坂 江戸時代の難波田村は、この現在の南畑地区のうち東大久保を除いた地域です。東大久保は古尾谷荘(今の川越市)の一部でした。

―難波田氏のその後は。

早坂 その後歴史に登場するのは南北朝時代です。足利尊氏と弟の直義が仲たがいをし観応の擾乱という抗争が起きます。尊氏側についた高麗経澄という武将が、羽祢蔵(志木市)で難波田九郎三郎を討ち取ったという記録が残っています。これも金子氏の子孫と思われます。難波田氏は負け戦の記録ばかりです。

 その後は領地は没収になったようで、難波田氏の旧領が鶴が丘八幡宮に寄進された記録があります。

河越城主上杉朝定の重臣だった難波田弾正

戦国時代になると、難波田氏が再び活躍します。鎌倉時代と血がつながっているか確かではありませんが。、河越城主上杉朝定の重臣だった難波田弾正(善銀)が越生の報恩寺に田地を寄進しています。難波田弾正が普段いたのは松山城だったようです。1546年に北条氏によって上杉朝定は滅ぼされ、弾正も戦死します。

 これで難波田氏は衰えたわけですが、1559年の史料でも難波田氏の子孫の名があり、江戸時代、明治の後も難波田の名で活躍した方は各分野にいらっしゃいます。

―難波田城はいつできたのですか。

早坂 確実に言えるのは戦国時代のお城だということで江戸時代には難波田弾正の城跡と言い伝えられています。以前は鎌倉時代に難波田氏が館として整備したものではないかとも考えられたのですが、確かな記録はありません。

平野で水堀をめぐらせる江戸時代の城に通じる構造の難波田城

―どのような特色が。

平野で水堀をめぐらせる江戸時代の城に通じる構造です。ここは、南北の交通路と羽祢蔵の渡し、大宮台地から武蔵野に入る交通路ににらみをきかせるという要衝に位置しています。

 

―いつまで残っていたのですか。

早坂 土塁や濠は明治、大正のころまであったんですが、耕地整理で埋められました。それを絵図と発掘調査の成果に基づいて復元し、平成12年に公園としてオープンしました。

(難波田城資料館 富士見市大字下南畑568-1 049・253・4664)

 

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