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明治から続くサツマイモの代表
紅赤 

サツマイモ(甘藷)と言えば、紅赤が代表的な品種。明治31年(1898)に発見され、いまだに人気があり、生産が続いている。川越イモの産地、三芳町の歴史民俗資料館で「甘藷と三芳」と題する展示会が開かれている(1125日まで)。同館学芸員の岡野賢人さんにご説明いただいた。

         

原産は南米

―この展示会開催のきっかけは。

岡野 三芳町はサツマイモの生産が盛んです。町内で生産が続いている紅赤という品種が120年目を迎えるのを機に企画しました。


―サツマイモの生産というのはそもそもどこで始まったのですか。

岡野 サツマイモは日本人になじみがありますが、日本原産ではなく、南米の原産です。祖先種は元々イモが成る品種ではなかった。コロンブスが新大陸を発見した際ヨーロッパに持ち帰ったとされています。16世紀末に明から琉球(沖縄)に伝わり、日本(薩摩)に伝わったのは江戸時代初めです。その時は甘藷とかカライモ(唐藷)、琉球芋などいろいろな呼び名がありました。


―関東で作られるようになるのは。

 

岡野 南米原産の植物なので日本で栽培するのは容易ではありませんでした。沖縄・九州から北上するのに寒さがネックとなり、関東に伝わるのは遅く、享保20年(1735年)になります。栽培に成功したのが青木昆陽で、徳川吉宗の下で、享保の改革を推進した人です。改革の一つが享保17年におきたウンカの大発生に伴う大飢饉の対策で、コメに頼らない作物としてサツマイモに注目。江戸の小石川養生所と上総国不動堂村、下総国馬加村で試作を行い、成功します。それをもとにイモの種類、栽培方法などを書いた「蕃藷考」という文書が書かれました。

 


南永井の吉田家

―三芳町には。

岡野 三芳町に伝わるにはさらに15年くらいかかりました 1751年、三芳町(上富村)に隣接する南永井という村の名主吉田弥右衛門が、千葉県のサツマイモを持ち込んだのが始まりと言われています。今でも吉田家にはサツマイモ試作の古文書が残され、サツマイモ試作の地の記念碑が立っています。

―サツマイモが三芳町で盛んに生産されるようになったのはどうしてですか。

岡野 土が適しています。武蔵野台地に位置し関東ローム層が厚く積もっている。三芳は大きな川がなく、水が得にくい土地で米作には向きません。サツマイモは養分が多すぎず、水が少ない土でもよく育つ、ということで、主作物として選ばれました。

高設温床、循環農法

―サツマイモはどのように栽培するのですか。

                                              

岡野 時代とともに栽培方法が変わっていきました。青木昆陽の「蕃藷考」と、三芳村における大正時代の指南書、「甘藷栽培法」を対比すると、前者は低設温床、後者は高設温床です。後者は現在に近い。低設温床は馬糞の中にイモをうずめてその上を植物で覆って熱の発散を抑えて発芽を促そうとしたもの。高設温床は、地表に高く苗床をつくり、落ち葉を敷き、その発酵熱を利用してイモの発芽を促します。

三芳町におけるサツマイモ栽培の手順は、クズハキ(落ち葉はき)から始まり、フセコミ(敷き込んだ落ち葉を踏み、種芋を並べ、その上に堆肥、麦ぬかを被せる)、苗とり・苗さし、蔓の手入れ、収穫(イモ掘り)、貯蔵(穴倉に貯蔵して翌年の春までゆるゆると出荷していく)。雑木林の落ち葉を利用する循環型農法と言われるものです。

江戸の焼き芋人気

―生産されたサツマイモはどこに出荷されたのですか。

岡野 大消費地である江戸に向け出荷されました。重くてかさばるので新河岸川の舟運が利用されました。河岸は、現在の富士見市にあった蛇木河岸、山下河岸、鶉河岸、前河岸などが使われました。江戸に運ばれたサツマイモは、浅草の花川戸というところで別の舟に積み替えられ、流通したようです。

―江戸でサツマイモは人気だったのでしょうか。

岡野 サツマイモ商人は神田や本所などに点在していました。焼き芋は、寛政5年(1793)、本郷4丁目の番屋で売ったものが始まりとされています。川越周辺で生産され新河岸川を下って運ばれるサツマイモは「川越いも」と呼ばれ、その中でも上富、中富・下富、北永井、南永井が本場とされていたとの記録もあります。謎かけで「栗(九里)より(四里)うまい十三里」とも。焼き芋は冬の風物詩となっていたようで、歌川広重の浮世絵にも描かれています。

紅赤を発見した山田いち

―紅赤はいつから。

 

岡野 サツマイモは突然変異がおきやすく、江戸当時からいろいろな品種があり、昆陽が著した「甘藷記」にも6種が紹介されています。紅赤は、明治31年、木崎村(現さいたま市)の山田いちによって発見されました。「八ツ房」という品種から突然変異した品種です。いちさんのおい、吉岡三喜蔵が紅赤と名づけ、生産普及に尽力しました。

 
  吉岡三喜蔵  山田いち

紅赤は大変な人気で一時期は埼玉の畑の9割を占めました。明治から現在まで作られているのは紅赤だけです。

―現在、三芳町で生産されている品種は。

岡野 紅赤の他、紅東、紅赤、紅はるか、シルクスィートなどがあります。紅赤に比べ紅東は育てやすい特徴があります。

        (取材2018年10月)